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植木雅俊『仏教、本当の教え』


前回の『神も仏も大好きな日本人』で仏教と神道の習合、分離の歴史についてはおおまかに学んだので、つぎは仏教そのものの教えについて読書した。この本はざっくりいって、
1. 仏教の基本的エッセンス
2. ↑が中国に伝来してどう変わったか
3. ↑で漢訳されたものが日本に伝来してどう変わったか
4. インド、中国、日本、三国における仏教の比較
という構成になっている。つまりは「伝来を経てめっちゃ変わっちゃったんだよ! でも本当はこうだったんだよ!」というわけでこのタイトルだ。そして変わっちゃった理由で大きなウェイトを占めるのが翻訳である。みたいな流れだった。


サンスクリット語のsiddha-ntaという言葉が挙げられていた。siddha(達成された)とanta(究極)の複合語であり、「確立された結論」「立証された真理」みたいな意味である。それが漢訳の際、悉壇と訳された。だけど実はこれ、悉も壇も発音記号であって、訳というか何というか、siddha-ntaをシッダーンタと言うようなものだったのだ。なのに後世では「悉」「壇」という漢字自体の意味から意味が再認識されちまった。結果、もとは「確立された結論」だったものが今では「あまねく衆生に施すこと」みたいな意味になっちゃったようだ。
アホか。とつっこみながら読んでいたんだが、著者も「原典もあたれや、アホか」みたいに言ってて笑った。

いやでも、面白いトピックだけれど、ぶっちゃけ俺はこのへんはあんまり興味なくて、あくまで雑学収集みたいな感じで読み飛ばした。


お目当ての、仏教の基本思想について。

1. 平等。
ヴァルナ・ジャーティ制(カースト制)の否定。人の貴賤は生まれでなく行いで決まるというもの。仏陀さんは最下層の被差別民チャンダーラが身につけていた袈裟を着ていたが、これはそういった事情からだ。チャンダーラだろうと行いによって最高の清らかさを得られるとのこと。
なお、皮肉なことに、インドには生まれによる階級制度が染み付きまくっていたために仏教はあんまり根付かなかったとのこと。なお現在、仏教発祥の地であるにも関わらずインドはヒンドゥー教徒80%、イスラム教徒10%強である。

2. 迷信否定。
なんか昔はカースト最上位のバラモンが実権を握るバラモン教が、胡散臭い迷信で人々を惑わしビビらせまくってたらしいんだが、それを否定。仏陀さんは道理を何より重んじた。
ガンジス川で有名な沐浴もまた否定していたそう。あるバラモンがばしゃばしゃ沐浴していたら、ある出家者が「何してんの」と問うた。
バラモン「沐浴によって過去世の悪行を洗い流してるのさ」
出家者「その言によれば魚は生涯水に浸かってるから、誰よりも解脱してるはず。なのに畜生として人間よりも低く見られてんじゃん。おかしーじゃん?」
バラモン「」
みたいな逸話も残っているほどである。いや、精神的な修養にダメ出ししたら可哀想じゃんね…。

3. Godの否定。
西洋倫理の否定。これはつまり、西洋では「やっちゃダメなこと」の理由が「Godが禁じてるから」なのだが、それを否定したという意味だ。仏教においては、「やっちゃダメ」の理由は「人から危害を加えられたら嫌だろう。そんなら自分も人に危害を加えたらいかん」である。

4. 真の自己に目覚めること。
こういう言葉がある。「快馬は鞭影を見て、即ち正路に到る」。名馬といえど正しいコースを外れることはあるが、騎手が振り上げた鞭の影を見ることでハッと気付いて正しいコースに戻ることができる。そんな馬こそ名馬である。
なんかやらかしても、自分を顧みて反省しようやってことだろう。このような自律性こそが仏陀の説いたものであった。仏教が目指したものは、「真の自己」の発見による苦しみからの開放だ。山の上のほうでなんかストイックにガンバってる僧さんたちはそういうことをしてたんですね。知らなかった。


雑学がごちゃごちゃと増えていくのを感じる。次はなんかカルいのを読みたい。


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| カテゴリ:みろりHP |
昔好きな人が言ってたこと


私はAくんのこと嫌いだ。けどAくんにもAくんを愛する親兄弟がいて、恋人がいて、友達がいる。さらにAくんも連中が好きだったりする筈。だから連中はAくんの良いところを視ることができて、Aくんも連中の良いところを視ていることになる。私がAくんを嫌いなのは、Aくんの良いところを視る力が私になく、さらにAくんが気に入る何かを私が持っていないことが原因である、ということもできる。私の実力不足だという考え方もできるわけね。


しなくていい苦労はしなくてもいいけど、苦労した人にはきっと勝てないね。


| 緑色 | みろりHP | comments(0) |
| カテゴリ:ゲーム |
東方星蓮船ノーコンクリア(M)



星蓮船は好きなキャラ(小傘とか)、好きな曲(デー……デッデン♪デデッデデン♪)が含まれてるんでクリアしておきたかったが、難易度がパないんだよなー。特に船長からの5面、ベントラーを無理に取得しようとして残機を無為に散らすってのが多かった。思い切ってベントラーは気にせず、気合避けに徹すると結果的にリソースが残ることを発見してからはトントン拍子。あとは虹ベントラーの色管理に気を回すよう心掛けると大分変わる(ボムるタイミングとか)。
パターンっていうか面ごとの方針は以下の通り。

1面: 緑ベントラーが中心。
2面: 緑ベントラーが中心。ボムがほぼマックスに。
3面: 赤ベントラー狙いに移行。
4面: 道中と船長でボムを使うので再び緑ベントラー狙い。
5面: スペカほぼ全てボムる。星ちゃんは1ピチュくらいで抑えたい。
6面: フライングファンタスティカに発狂する時間。

フライングファンタスティカがやばい。スコアのclear以外は全部コレだし、クリアも5機使ってゴリ押しだ。




このアレンジが良い。Exもちょっと見たけれど、小傘が出るみたいで嬉しい。


| 緑色 | ゲーム | comments(0) |
| カテゴリ:感想文 |
島田裕巳『神も仏も大好きな日本人』


ツイッターに、わりと喋り方の俺好みな方がいる。その人が仏教関係のことを喋っていたことがあり、もともとのささやかな興味もあって、今回は仏教関係の本をチョイスしてみた。ちくま新書。


この本を読むにあたって、あらかじめ知ってた方いい語がいくつかあると思う。それをちょいと連ねておく。

「神仏習合」
大昔、日本は神道一色だったが、あるとき仏教が入ってくる。
人々は神道教徒、仏教徒に分かれたりせず、ふたつを融合させた。
その神仏の融合のこと。
「神仏分離」
明治のとき、融合した神仏をきぱっと分けようって政府が決めた。
国教は神道にしよう! ってことになったため、
神道の領域から仏教は引き剥がされる。
そのこと。
「廃仏毀釈」
神仏分離にともない、引き剥がされるどころかクッソ破壊されたりする。
仏寺がもってた土地はぶんどられ、特権はなくなった。
そのこと。

まあ神道と仏教は、融合→分離、という歴史を辿ったんだということが分かってれば大丈夫な感じ。この歴史についてちゃんと解説してくれているのが本書だ。へー、こんな感じだったんだってのがわかるし、神社や仏寺にかんするうんちくが増えて楽しい。読み終えてから知り合いと一緒に近所の寺へ行ったのだが、いたるところに本書の知識を運用できる点があったため色々とうんちくを我が物顔で披露してしまった。ウザがられてなかったかぶっちゃけマジ心配である。
具体的には、何かに刻まれてた「南無観音菩薩」の意味、そこらへんにいくつもある社の意味、おがむときに合掌するのか拍手するのか、みたいな。

著者の語り口はそんなにおカタくなくてすらすら読める。中盤からはちょいと固有名詞が増えてついてけないところが増え、読み飛ばしたところがちょこちょこあったりしたけれど、まあそれは、アレですね。辞書ひくのダルがっちゃいけないよね…。いやどうしても面倒でね…。


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| カテゴリ:感想文 |
モーム『月と六ペンス』


まったくやべえ一冊に出会ってしまった。これほど初見で惹きつけられた本は『デミアン』以来だ。『デミアン』のときほど真剣な考察はしてない為、感じたことをしかと感想文できるか自信がないけども、まあ書いていく。サマリーと印象的だったところなどを。


語り手の「僕」が、ぐう畜かつ偉大な芸術家ストリックランドの分析を試みるという内容だ。その材料として、過去ストリックランドと接点のあった日々のことや、ストリックランドに会った人々の話を取り上げ、時系列順に語っていく体裁になっている。

まともさだけが取り柄の、クソ退屈な男チャールズ・ストリックランドは今まで、そしてこれからも妻子と社会に尽くすロンドンの凡夫であり続けるはずだった。だがある日豹変、妻子と社会的立場を棄却しパリへ去ってしまう。「僕」が訪ねたところ、「俺はひとりで絵をかきたい。妻子? 犬にでも食わせろ」とのことである。ぐう畜。凡夫の皮を脱ぎ捨てたミスター・ストリックランドは残忍かつ身勝手な人間で、善人の画家に暴言を浴びせ、病に伏せていたところを助けてくれた人に謝辞もなく、人の奥さんを奪い、あげく捨てて自殺せしめてもなお眉ひとつ動かさないイキっぷりである。世俗的なことに興味がなく、つねに貧乏してマルセイユの底辺をさまよい、ついにタヒチを終の棲家としてハンセン病によって壮絶な最期を遂げる。

かれの絵の価値を、かれの生前に理解できたものはごくごく少数だった。が、現在かれの偉大さを認めぬものはおらず、上記の傍若無人ぶりも長所に必然的に付随するものとして容認される有り様である。とはいうものの世間に流布しているストリックランドに関する通説のだいたいは、かれが最初に捨てた妻と子供たちによる証言に拠っているようで、甚だ的を射ていないとのこと。なにせかれが芸術家としてガンバっていたのは連中の元を去った後のことであり、その後連中がかれに会うことはなかったのだから。そんなわけで「僕」が、ストリックランドの知られざるエピソードを取材して考察してみたぜ! というのが本作を書いた「僕」の経緯である。


なおこの小説はポール・ゴーギャンの生涯にヒントを得たフィクションであるが、なんかすげえノンフィクションの実録ですみたいな雰囲気を醸し出すものだから俺はついチャールズ・ストリックランドでググってしまい、村上春樹『風の歌を聴け』のデレク・ハートフィールド現象の二の舞いを演じてしまった。まったくやられた。


冒頭で述べたように、今回の作品は随分気に入っちまった。
その理由のひとつとして、まず『デミアン』と構造が似ているってのがある。ひとりの天才(あるいは逸材)を、凡人たる語り部の目を通して描写しつつ分析するというかたちだ。俺は最初、そういった理由から、これも著者モームさんの自己分析だと思った。自己をストリックランドに投写し、自己分析・自己批判・自己憐憫の手段として語り手・聞き手としての「僕」を配置するかたちだ。けどどうも、あくまでゴーギャンをモデルにした作品らしいのよな。自己分析というよりは、ゴーギャン分析という感じ。

ふたつめは、これも『デミアン』と同じような理由だけれど、登場人物たちの哲学が俺のそれに近いこと。先に「凡人たる語り部」とは書いたが、それは観察対象である天才と比べてのことであって、一般的には十分愛すべきマイノリティのひとりだ。たとえば『月と六ペンス』の語り部「僕」は、そいつがどんな悪逆無道な奴であっても「僕を笑わせてくれる人を心底から嫌えない」、「僕と同等にやり合える相手」ならば「どれほど堕落した人間であろうと付き合うのを楽し」んでしまうという、しばしば道徳心と倫理観が留守をするパーソナリティである。

みっつめは、まあ、単純に文章が好きだ。キャラの掛け合いもクスッとくるのがあるし、あとストリックランドさんの罵詈雑言がヒドすぎて好き。テラ暴言厨。「犬にでも食わせろ!」そのくせ、絵のスキルをこつこつ磨いて頑張ってるとこもかわいい。「夜間の絵画教室に通ったのだ」。


終盤の、タヒチでの生活描写も浪漫に溢れてていい。そのぶんストリックランドが死に向かっているシーンの描写が逆に際立ってすごい。本作で一番好きな描写は、クートラ医師がストリックランドを心配して会いにいくシーンかもしれない。「栽培地に着くと、何か不安感に襲われた。」「大気に敵意が潜み、目に見えぬ力が自分の行く手をはばむような気がした。」「収穫するものもいないので、椰子の実が腐って地面に転がっている。」

あと多分これは間違いないと思うんだけど、モームさん、妻のこと嫌いだろ。作中の妻属性もった女にろくな奴がいない。俗物、浮気者、凡人である。アタちゃんというぐう天使は別だが。アタちゃんはカワイ過ぎるだろ。「アタは初めて微笑んだ。彼女の目には超人的な愛の表情があった。」


久々に翻訳小説を読んだが、日本の小説と比べて読みやすいこと月とスッポンの如くだ。まあこれは21世紀の翻訳だから20世紀初頭の小説と比べるのはアレだが、なんだか文構成がすっきりしてる気がするんだよなー。これはモームさんがスゴイのか、訳者の行方昭夫さんがスゴイのか。
っと、一読しただけじゃさっぱり要領を得ないタイトルの『月と六ペンス』について。これは理想と現実のことだって解説に書いてあった。なるほど。妻子と裕福な生活、「六ペンス」を捨て去って「月」に向けて奔走するストリックランドと、いつまでも俗っぽいかれの最初の奥さんエミリーや、肉欲を利用してかれを繋ぎとめようとした女たちはなるほど対照的だった。


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夏目漱石『それから』


『それから』は前回の『三四郎』からテーマ的に何となく繋がっているらしい。三四郎くんは好きだった女性に思いを伝えるのがちと遅まきだったためどっかの馬の骨に取られちまったが、いっぽう、『それから』は馬の骨から女性を取り戻す話だ。
サマリーと印象的だったところを書く。


ナルシストでクソニートの代助が主人公。実業家のとーちゃんにーちゃんにおんぶだっこで高等遊民生活をエンジョイしている30歳である(*1)。あるとき、平岡常次郎・三千代夫妻が大阪から東京に越してくる。かれらはふたりとも、昔、代助が仲を取り持って結婚した旧友である。どうやら平岡夫妻の夫婦仲があまりよくいってないと見てとったニート代助は、昔密かにもっていた三千代奥さんへの恋心を再燃させ始める。まあこれは端的にいってNTRであるので社会倫理、旧友平岡くん、そして度々見合いを斡旋してくる実家のとーちゃん達を的にまわす行為である。だが代助くんは社会の荒波何のその、三千代さんに思いを告げ、平岡くんにも堂々とその旨宣言するわけである。結果平岡くんには絶好され、実家からは勘当され仕送りを断たれ、ニートはニート卒業すべく街へ出て行くのであった…。
いや仕事くらい告白する前に探しとけや。まあこんな話である。

*1 とはいえ当時では、長男が親の事業を継ぎ、次男以降は悠々自適に生活するのはそんなに妙なことじゃなかったそうだ。


総合的にいって、ツッコミを入れつつ面白く読めた。まあそのツッコミの大半は「このクソニートww」といったものだったが。そんなわけでそのクソニートのことを振り返ってみる。

代助くんについて。
こいつはクレイジー。価値観が周囲の連中とバカみたいに違う。まあ30までブラブラしてるような高等遊民だったらこんなもんかねとも推測できるが、優しい兄貴でさえ終いには「何を考へてゐるんだか安心が出来ない」と厳しい言葉をぶつけた。やっぱり当時でもちょっとおかしいレベルだったんだろう。そのおかげで常にツッコミを入れつつ大笑いしながら読めたわけだが。ちょっとその例を見てみよう。
1. 三千代奥さんが金に困っているので、実家に金を出させようとするも「さすがに他所様にはやらねえよ」と突っぱねられ、どうすべきかと真剣に思い悩む代助。→お前がちょっと働きゃいいだろクソニートww
2. ダチに「働けば?」と言われるも「金のために働くなんて、低俗だよ」とクールにキメる。→何様だクソニートww
3. 「もしポテトがダイヤモンドより大切になつたら、人間はもうダメであると、代助は平生から考へてゐた。」→クソニートとしか言いようがないww
4. 親の斡旋した縁談を「なんかヤだ」と断るも、あんまり断りまくって仕送り止められることを『何より恐れ』る。→金のためにオヤジの顔色を窺うのは低俗じゃないんですかねえ…
とはいえ物腰は最高の教育を受けているだけあってなかなかに柔らかである。態度の悪い奴に会っても「甚だ不愉快に響いた。ただ腹が立たない」と構えるところは見習ってもいい。我流の哲学も持ってるし、わりと好きなキャラだ。迷走しつつ、ざっくりと前向きなところもいい。


夏目漱石の文体は好き。読みづらくないしユーモラスだ。文体といえば、『それから』は『三四郎』よりあとに書かれたはずなのに、文体が『三四郎』より古いように感じた。なんでだろ。解けない疑問点のひとつめ。
ふたつめ。代助が最後、平岡の手紙を読んでくらくらする場面があるが、あれは何故だ。さんざん「NTRは社会通念上バッドであるが俺的には悪いことじゃない」などとぶり、平岡を前にしては堂々と言ってのけたのに、その内容を手紙で読んだらガーンときちゃうのは何故だ。家族に知られたからか、とも考えたが、こいつ「凡てと戦う覚悟をした」と明言してるのだよな。分からん。


Kindleの欠点に関して意見が固まってきたので書いておく。
1. 本のようにパラパラとめくることが出来ない。さっと見直したいところがあるときに不便。こうやって読書感想文を書く時になかなか厄介。
2. 本を読んだという事実を本の重量から認識することができない。ひとつ読んでも、本を読んだってより一冊分の情報を得たって感覚しか感じない。
メリットは色々わかりきってるので割愛。


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