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適当ヒンディー語 コピュラ


コピュラは英語でいえばBe動詞のことで、日本語では連結詞だ。Be動詞って呼び方は英語だけに当てはまるから、他言語ではコピュラという他ない。今回は代名詞と、それに対応するコピュラを書く。対応するというのは先回書いた一致のこと。


「この人(たち)、あの人(たち)」の「YE, VO, YE-, VE-」は「これ、あれ、これら、あれら」としても使えるし、「this book, these books, that book, those books」みたいに形容詞的にも使える。


今回のコピュラと先回の名詞形容詞一致がわかれば、「this is good girl.」とか「I am fine!」とか、英語でいえばBe動詞の基本文が書ける。普通動詞文はムリ。なぜなら主語と動詞も一致するため、動詞の活用を知らないと書けないから。つーか俺もわからん。まだ教わってない。いやマジ、ルーマニア語みたいにある程度学んだワケじゃないんだって。小耳に挟んだ程度。

なおヒンディー語の語順は日本語と同じなので、
「this is good book.」は YE ACCHI- LARKI- HE-. (this good girl is.)
「I am fine!」は ME~ THI-K FU~. (I fine am.)
となる。


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東方星蓮船EXクリア


ぬえちゃんもクリアできた。イエー。


もちろん苦労はしたが、フランドールよりは簡単と感じた。あっちは二ヶ月。早苗Bのお陰かもしらんけどさ。俺はランダム弾の気合避けが好きなので、今回は結構楽しめた。ただアレ、いちどピチュるとパワーの関係で巻き返しが難しいのがどうもな。ボス戦で被弾するとモチベーション下降待ったなしだ。


ノーマル制覇もしといた。ベントラーシステムは最初目新しすぎてもはや別ゲーじゃねーかコラァという感じであったが、今となってはチョー楽しいですねはい。


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適当ヒンディー語 名詞形容詞一致


ルーマニア語では「good women」と言いたいとき、形容詞「good」が「women」の「女性・複数」の性質を反映して女性複数系に変化(一致)したりしていた。ヒンディー語でも同じことが起こる。


つーかそもそも、名詞が男性か女性か、単数か複数か見分けがつかねーと話にならんので、単語の語尾で性と数を見分ける表から。


たとえば「LARKA-(boy)」は複数だと「LARKE(boys)」、「LARKI-(girl)」が複数で「LARKIYA~(girls)」(読み方はラルキヤーン)。
「その他」は覚えるっきゃない。

次が形容詞語尾変化の表。


たとえば「ACCHA-(good)」を名詞にくっつけると、「ACCHA- LARKA-(good boy)」「ACCHE LARKE(good boys)」「ACCHI- LARKI-(good girl)」「ACCHI- LARKIYA~(good girls)」になる。


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最近みた映画の感想


ストーリーの備忘録を兼ねているのでネタバレ注意。知り合いとホラー鑑賞会をするためにツタヤのカードを更新したので、ついでにと何本か観たからまとめて感想を書いておく。


『SAW』
イカレポンチが人間を閉じ込めて死のゲームを繰り返して遊ぶハナシ。
胃にクる。てっきり突然女が出てきてビックリ系ホラーだと思い心構えをしておいたのに、そーゆーのじゃなかった。ギャーギャー叫んで適度にストレス抜きながら観るはずが、まったく叫ぶタイミングを与えてくれない構成で胃袋がストレスでおなか一杯。二重の意味で「やられた」と思った。

『リング』
呪いのビデオとやらを調べてたらミイラ取りがミイラになるハナシ。
ビックリ系。知り合いと一緒にギャーギャー叫んでストレスレスに観れた。死体を見つけてあげたのに何故呪いが解けなかったのか、という件について奴と考えたところ、「死体を見つけてもらうのなんてどうでもよかったんじゃね?」ということになった。コテージでしか電話が鳴らなかったのは、死体を見つけてほしいとかじゃなくて、単に貞子パワーが井戸の周りにしか及ばなかった為だろう。つーか貞子ちゃんより主人公一家がヤバくね? いろいろ見えすぎじゃね?

『華麗なるギャツビー』
女の恋愛は上書き保存だってハナシ。
ディカプリオさんマジチャーミング。語り部のマグワイアさんも好き。傍観者であると共に芯のある自分をもっている。俺は一貫性のある人間が好き。ストーリーというよりも主人公たちの所作に感銘を受ける映画だった。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
事故で過去に飛んじまうがガンバって戻る、ついでに過去に干渉して冴えない両親をインプルーブしてくるハナシ。
娯楽的に面白かった。マーティ超格好良い。なんであのオヤジからこのイケメンが生まれたのか。ギターで調子乗ってパーティが冷める必要はあったんだろうか。普通にアレで活躍して自信を手にする流れかと思った。つーか何だかんだ言って過去変え杉。

『ダ・ヴィンチ・コード』
キリストの子孫とキリストの嫁の遺体を守るシオン修道会って連中と、そんなの居られたら困るというオプス・デイの連中と、それに巻き込まれる主人公たちが何だかんだ擦った揉んだするハナシ。
一遍観ただけではワケが分からず、知り合いと一緒に二回観た。一遍目では、俺は「マッケランじーちゃんかっけーなー」と言い続け、知り合いは「ソフィーさんの顔超エロくない?」と主張し続けてた。ちょっと何言ってるか分かりませんね。

『ロミオ+ジュリエット』
ロミジュリの現代版リライト。
おバカなノリが楽しかった。知り合いがディカプリオさんのキスシーンで「このシーンで世界中の女の子がこのヒロインに嫉妬したよねーきっと」とか、ディカプリオさんの口説きシーンで「こんな歯の浮くような台詞一度でいいから言われたいわー! …なんてウッソー! 本当に恋してたらこんなに舌回んないっつーの!」とか騒いでて面白かった。まったくその通りだと思いますがこれ戯曲なので勘弁してもらえると…。


だから長すぎるわ。知り合いが今度は『呪怨』借りようとか言ってた。アレガチで怖いって噂の奴じゃねーかマジ勘弁。


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A.C.グレーリング『ウィトゲンシュタイン』


ウィトゲンシュタインはオーストリアの哲学者で、俺のフェイバリット・フィロソファーだ。著作である『論理哲学論考』を本屋でちょっと立ち読みして以来かれのファンで、たびたび伝記とか著作解説などを読んだりしている。今回もその一環で、伝記とウィトゲンシュタイン哲学解説がセットになった本を読んでみた。かれはわりとアクの強い人で、哲学と生活が一貫性をもつ……すなわち知行合一の人であるから(そういうところに俺は惹かれている)、伝記とセットになってることが多いんだよな。
伝記と解説だし、サマリーはやめて今回の読書で得たいくつかの知識をメモっとく。


・前期の代表的著作『論理哲学論考』の意図は?
ゴールを「哲学的諸問題の解決」、手段を「言語のはたらきを明らかにする」と定め、「なぜ言語の理解が哲学的諸問題の解決につながるのか?」を論証していくものだ。

・で、なんでなの?
哲学的諸問題は、言語の限界をちゃんと認識しないまま、限界の外側のことについて喋ろうとするせいで発生するものだ。なので、言語の限界をきちんと定めれば……つまり、どこまでが語りうることでどこからが語りえないことなのか分かれば、「語りうる」ことだけを議論しうる。語りうるってことは解決しうるってことだ。よって「言語の理解=諸問題の解決」という構図がなりたつ。

・言語の限界ってなに?
言い換えると思考の限界のことだ。思考はすべて言語で行われるので、そのイコール関係がなりたつ。「思考=言語」っていう理論を持っているかどうかで、ウィトゲンシュタイン哲学の理解度はかなり変わる。最初にかれの哲学を読んだときには、俺はたまたまそれを持っていたのですんなりファンになれたんだと思う。

・言語の限界の外側はどーすんの?
述べた通り、それは語ることはできない。ただ「示される」だけだとウィトさんは言っている。これに当てはまるのは、「倫理的、宗教的に大切なこと」らしい。俺は、「語りえないことがある」ことは同意するけど、なんで倫理宗教が持ち出されるのかよくわからない。俺は概論でいちおう宗教に関しては定義づけているので、宗教らへんは「語りうること」だ。

長い。三行で。
語りえないことまで語ろうとするからメンドくさくなる。
どこまでが語りうる(=言語の限界)のか定めたぞ。
その外側に関しては黙ってろ。

・後期の思想はどんなものだったの?
前期の思想をいっきにひっくり返す内容。前期の思想(言語の論理をちゃんと理解すりゃとにかくOK)には、「言語には単一の基礎となる論理がある」という前提を下地にしている。20世紀を代表する思想、原子論に影響を受けた考え方だ(=複雑なものでも、基礎的要素まで分析したら単純なものになるはず)。でもその前提に根拠ねーよなあ、ホントは、言語にはもっとたくさんの様々な性質があるんじゃね? というのが前期思想と後期思想の違い。
ぶっちゃけここからはさっぱり理解してない。言語の論理ってのが意味不明。分からないものはサマライズも出来ないのでここまでで。


ちと長くなってしまうので、今回は本書の中から前期思想と後期思想の外観だけさらっとまとめただけで終了。ほかにも面白い内容がいくつか……ラッセルの扱った「命題」に関する問題とか、『論考』の6.43にある「世界の境界」のハナシとか、言葉と意味の関係とか……あったけれど、また回を分けて書くことにする。


この本の著者、ウィトゲンシュタインを手放しに褒めるようなことはせず、ちょいと批判を加えていた。そのうち2項目に関しては承服しかねたので反論を書いておく。

・「哲学的諸問題は言葉の誤解から生まれる。言葉を正しく理解すれば問題は発生しない」というのはおかしい。良い、正しい、現実という言葉をきちんと考えたところで、実生活において善、真、存在について感じる哲学的諸問題がぱっと解決するわけない。
いやする。そりゃ0.1秒で解決したりしないだろうが。これらの言葉に付随する色々な「常識」的イメージ、誰かによって作り上げられた意味合いは、これらに関する問題を考えるときの妨げになる。そもそも善、真、存在というのは、「ただの善、真、存在」なのである。それをありのまま見据えることで、これらに、これまで感じていた問題など付随していないことに気付く。問題は見ているこちら側が勝手に作り上げるものだ。「常識」的イメージを払拭することから哲学(=思考をあきらかにする作業)は始まる。いや確かに、「始まる」だけであってその瞬間に解決はしないだろうから、まあ半分くらいはコイツの言ってる通りだと思うけれどね。

・ウィトゲンシュタインは哲学を治療だと考えている。つまり、説明的体系の構築ではなく誤りの消去を目的としている。そのせいでかれの作ったテキストはパッチワーク的であり、比喩と暗示に溢れ、解釈が困難になっている。
とりあえず『論考』の序文一行目を読むべき。「本書は、ここに表されている思想……ないしそれに類似した思想……をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。(中略)理解してくれたひとりの読者を喜ばし得たならば、目的は果たされたことになる。」だからこれは教科書じゃない。すでに考えたことのある人、仲間にとっては解説書めいた文章よりも、感覚的、メタファー的文章のほうが普通伝わりうる。ここでもコイツの言ってることは別に間違ってないと言える。解釈が困難なのは確かだと思う。だけど分かる奴には分かる。そしてウィトさんのテキストはそういう奴のために書かれたはずだ。


長すぎるわ。
もっとサラッとした感想を……こんな程度の感想文を適当に量産したいのに酷い長さになってきてる。


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| カテゴリ:みろりHP |
適当ヒンディー語 文字


なんか縁があって知り合いにヒンディー語をちょっと教わった。この先使うわけねーしどーせ忘れていく筈だが、それも寂しいハナシなのでせめて習ったものをここにまとめておこうと思う。

ヒンディー語は日本語と語順がいっしょなので、ルーマニア語をやったときと比べると気がラク。ただし名詞、形容詞の性数変化があるんでそこだけは留意。まず第一回は、最初にして最大の壁、文字。ヒンディー語の表記はデーヴァナーガリー文字で行う。


「あいうえお」そして「か」「が」「ちゃ」……


ちなみに t と d の下に点がついてる奴は舌で口蓋を叩いて出す音で、日本語の音にはない。tta という音でもない。tta(った)っていう音の書き方は後述。
これだけだと「あ」段の音しか書けないので、次に5音の書き方。


これだけだと「あーいーうーえーおー」みたいな伸ばし音が書けないので


これだけだと「ん」の音……たとえば「あん」とかが書けないので


なんかやたらとh行を例にしているのは何故かというと、ヒンディー語のコーピュラ(英語のBE動詞みたいなやつ)が he-, he-n, hu-n でよく使うため。
これだけだと「ちゃー、ぴゃ、みょ」とかが書けないので


これで日本語の音はすべて書ける筈。たぶん。願わくは。


こういうの、小学生のときによく作ったよなあ。暗号、とか言って。
次回は名詞の性数とかについて書こうと思うけど、たぶんこの文字でいちいち書いたりしないと思う。めんどくさいのでローマ字でいく。覚えて書けるようになると楽しいんだけどね。


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| カテゴリ:感想文 |
神仏が習合できた理由


神仏習合ってのはこないだの読書感想文に書いたとおり、神道と仏教が融合している状態のことだ。六世紀なかば、百済から日本(当時は倭だけど)に仏教がはいってきたわけだけど、その際、日本人は土着の神道と外来の仏教を融合させてしまう。
いや、それってマジヤバじゃねえ? ふたつの宗教を合体させて受け入れちゃうとかパなくねえ? だってキリスト教とイスラム教に同じことやれっつっても無理くねえ? と俺は思った。ので、神仏が習合できた理由を考えてみた。


結論としては、「神道が求めるものを仏教が持っていたから」、そして「仏教、神道ともに受容的性格が強かったため」だ。
というわけで、「神道は何を求めてたん?」「受容的性格ってなんぞ?」という指針にそって説明していく。

1. 神道は何を求めてたん?
神道が仏教に求めたものは、仏教のもつ救済論だ。

1.1. 救済論って? とくに仏教の救済論ってどんな?
ふつう、宗教の目的は救いをもたらすことにある。とくに創唱宗教(開祖のいる宗教)においては、その開祖さんが独自の救済論をつくり上げることでその宗教を開くというのが一般的だ。日本に伝わってきた仏教、正確にいうと大乗仏教もまた創唱宗教なので例に漏れず、この救済論をもっていた。
上で仏教と大乗仏教を区別したのには理由がある。大乗仏教は紀元前後に仏教から分かれるかたちで興ったものだけど、もともとの仏教とは大きな違いがある。代表的な違いが、「他者の救済」論だ。大乗仏教の救済論を象徴するのがみんな知ってる観音菩薩さん。『観音経』によると、観音菩薩の名を唱える人は誰でも災難から守られるという。他者救済の象徴だ。やがて観音菩薩はアジア全域を通じて崇拝されるまでにいたり、敦煌(中国甘粛省の都市)なんかでは、シルクロードを往来し貿易を営む商人たちの希望で観音像が多数描かれた。旅の無事の祈りを込めたものだ。
仏教はもともと、他者の救済ってかむしろ自己の目覚めという点を強調しているものであった。そもそも「仏教」なる呼び方が本来のものではない。もともと仏教徒は「仏が説いた教え」、「仏教」という呼び方ではなく、「仏法(buddha-dharma)」という言葉を用いていた。仏陀さんが覚って、仏陀によって説かれた真理としての「法」、それを覚れば誰でもブッダ(buddha)、すなわち「目覚めた人」になれる。そういうモノだったのだ。
ところが仏陀さんの死後興った大乗仏教では、他者の救済に重点をおくようになり、いっぽう従来の仏教は「自分だけの幸せを求めるもの」であるとして、小乗仏教という蔑称で呼ばれ、低い地位を与えられてしまったのである。しかしその救済論を日本の神道が求めたのも確かだ。『多度神宮寺伽藍演技幷資財帳』には、「私は重い罪を犯したため神になってしまったんだが、この状態はイヤなので仏教に帰依したい」とのたまう神が存在する。ふつう善なる存在と考えられている神ですら仏教に救済を求めた例がこれである。

2. 受容的性格って?
よその神々を受け入れやすい性格のことだ。
仏教、神道ともに他の宗教を排斥するような攻撃的性格をもっていなかったことは、神仏習合において大きなファクターである。冒頭で「キリスト教とイスラム教じゃ無理くねえ?」と書いたが、これらふたつはまさしく攻撃的宗教だ。これらが伝播した地中海地域、中東、西アジア、東南アジア、南北アメリカなど各地域では、土着宗教は悉く滅ぼされてしまった。いっぽう仏教の伝播した地域、たとえば中国の道教などは滅ぼされずにいるし、我が国においては言わずもがなだ。そもそも、仏教はインドにおいて発生したものである。インドは多神教の世界で、バラモン教やその後に成立するヒンドゥー教が存在している。仏教の仏像には、如来、菩薩、明王、天といった連中があるが、そのうち明王や天に属している仏は、実はもともとインドの神だった。たとえば大黒天はシヴァ神の化身たるマハーカーラがそのものであるし、金剛夜叉明王はヴァジュラヤクシャ神が原型だ。当時からすでに高い受容性でもって土着の神々と融合していた仏教が、日本の神々とも融合していくのは、むしろぶっちゃけ当然の成り行きである。
仏教の受容性について述べたので、次は神道側……日本人の宗教的受容性について述べる。みな知っているとおり、日本人はあらゆるものに神、八百万の神々が存在するという多神教の価値観を持っている。ゆえによそからやってきた仏さんたちのことも、「仏」としてではなく、よその神さんたち、すなわち「蕃神」、「他国神」、「客神」として捉えた。そもそも仏と神には類似している点がある。日本の八百万の神々は、キリスト教やイスラム教における一神教の神とはまるで異なる。日本の神々は、一神教の神ほど絶対的な存在ではないし、世界を創造してのけるような力も持っていない。そして仏もまた一神教の神ほど絶対的な性格はもっておらず、つーかあくまで覚りを開いた「人間」のことだ。こういう類似点にも習合の兆しが見える。


いちおう、神仏習合ってのは具体的にどーゆーことをいうのか書いとく。
たとえば八幡神っていう神がいるが、こいつと仏教の八幡大菩薩は同じだ。神も仏も同じように信仰しているうちに「こいつとこいつって同一人物ってことにしねえ?」みたいな流れができて、「まあそういうことなら仏教の救済論を神道に組み込んじゃっても大丈夫か」みたいな感じで融合していったのである。ちなみに、いまでこそ神社と寺では参拝の仕方に違いがあるが(二拝二拍手一拝と合掌)、神仏習合の時代は神と仏の差なんてなかったんで両方合掌していたようだ。


これは読書感想文ではないけど、先週先々週と読んだ『神も仏も大好きな日本人』、『仏教、本当の教え』、そして頼富本宏さんの『密教とマンダラ』って本を参考にしたのでカテゴリは読書感想文で。最後のやつはなんか喋り方がしち面倒だったのでエッセンスだけ見て閉じちゃったので読書感想文はなしで。

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