2019.02.27 Wednesday
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緑色さんの多目的ブログ みろりえいちぴー(旧) 引っ越し先 みろりHP: https://www.mrrhp.com ★ 2015.02.28 Saturday
| カテゴリ:感想文 |
石川巧『「いい文章」ってなんだ?』
● 前回読んだ『言葉と歩く日記』に言及があったので読んでみた一冊。語り口が肌に合わなかったので流し読みのみ。受験作文がどのように生まれ、その評価基準がどのような変遷を辿ってきたかが書いてある。 ● ひとつ興味深かったのは、筆記用具の変化が作文の傾向に影響を与えたという点かな。最初期に用いられた筆記具は主に筆とペンだ。書き直しはきかない。ゆえに試験時、与えられた問題についてまず思考し、言いたいことをまとめ、最初に結論→その説明、というかたちで作文を展開するのが主流であった。それが書き直しの易い鉛筆に以降することでむしろ書きながら考え、文末に力をいれる形式に移ったそうである。 俺の好みは前者。論文はつねにまえがきで本論での問題、そして結論を書く。ここまでで結論が理解できる人には数行読むだけの労力しか強いない。そうでない場合には、続きに解説があるのでどうぞ、という形式だ。少数例からの一般化はすべきじゃないけれど、どうもまえがきで「こういう疑問を持ちました。いったい何なんでしょうか」からの本文、最後に「というわけでコレコレという結論になります」という人が多い気がする。あまり好かない。 2015.02.22 Sunday
| カテゴリ:感想文 |
多和田葉子『言葉と歩く日記』
● 小説家の多和田葉子さんが、ふつうの日記のかたわら特に言語に関することを綴っている日記。…らしいのだがマジか? 新書サイズにして200強ページ、その分量で元旦から4月上旬までの内容である。どんだけ書いてるんだ。びっくりだ。 ドイツを中心とした著者の生活と、その生活の端々で言葉について思ったことを奔放に書いている。俺は紀行文とかそういうたぐいの文章が好きだ。自分も旅をしている気分になる…とまでは言わないけれど、他人の生活ってのは存外おもしろいもんだ。面白かった部分を書く。 ● 著者は、言葉にたいする印象についてよく書いている。「外」という語には楽しさが感じられない。かわりに「野」はどうだ、とか。「肥えている」という表現には現代では否定的に見られつつある肉付きの良さを肯定する響きがある、とか。311のとき「炉心溶融」ということが騒がれたが、この言葉には焦りを感じない。同じ意味なのに「メルトダウン」には危うさがある。さらにドイツ語で「ケルンシュメルツェ」といった日にはもうヤバすぎる、とか(俺はここで爆笑した)。というのも、ケルン(核)という語に核を巡る対立の歴史や危うさが刻まれているからではないかと著者は考えている。たしかに「炉心溶融」は身近ではなく、歴史がない。 俺もこういった、あっ、この言葉は肌触りがいい、とかはしばしば感じるが、それはいつの間にか忘れている。こまめにメモをとっても面白いかもしらない。 著者は日本語とドイツ語両方で文章をかく人なのだが、それゆえ日本語の発想でドイツ語の文章をかくときの問題点について書いている。たとえば動物が主人公の物語で、語り部の動物が喋るシーン。「ぼくの手が…」とコイツが人ではなくて動物であることをボカして書きたいんだけど、ドイツ語で人間の手と動物の手は違う単語なので、書いたらすぐバレちゃうのである。 こういうことは俺もルーマニア語を使うとき感じる。女の子と遊ぶ予定があるとき、彼女から、誰と遊ぶのか追求を受けるとする。「友達さ」、なんてさらりとかわすのが模範解答だけど、ルーマニア語ではそうはいかない。男友達と女友達で単語が違うからだ。女の子と遊ぶのだとすぐバレてしまう。男友達の単語を使えば、もし見つかったとき嘘つきの誹りを免れない。 日本語を英語にするためには、日本語の言い方をこまかく砕き、日本語的言い回しをすべてふるい落として意味だけを残し、それを正しい語順の英語に託して相手へ届けなくてはいけない。そういった努力を繰り返すうち、母語である日本語にも透明性が表れてくるかもしれない。こんな文章があった。これは俺もずっと感じていたことだったけども、うまい表現を見つけられてなかった。「透明性が表れる」という言い方はすごく腑に落ちる。 具体的にいうと、文章をだらだら長くせず短くするよう心掛けるようになったり、副詞は文章のなかのもっとも関係がふかい語のそばにおくよう気を遣うようになったり、ということだ。俺の場合は。 少年刑務所で受刑者たちが演じる芝居を観る話があった。シューベルトだとかウェスト・サイド・ストーリーだとか、なんか俺にはよくわからないが教養ある演目だったらしい。この芝居プロジェクトの目的は、演劇を通じて暴力について考え、将来、暴力無しで問題解決できる人間になることだそう。受刑者を駄目人間扱いするのではなくて、なぜ人は暴力を犯すのかについて自分で考えさせようとしている。 一番大切なのは言語だ、と著者は書いている。といってもかれらが言葉を喋れないわけではない。日常言語はできても、社会問題を考え、広い視野で考察し、人に伝える言語を知らないのだ。だからこそこのプロジェクトでは、ギリシャ悲劇やシューベルトに学ぶことで、言語能力の向上を目指したのだろう、と。 俺が高校のとき、誰もやりたがらない弁論大会に生贄として参加させられたとき、同じようなテーマを喋った。たしかメインテーゼは「キレるガキには言葉が足らない」。うまく思いを口に出せないからキレるしかねーんだよ、あの連中は。みたいな感じ。賞はもらえなかった。 ドイツ語には「一度聞いたら耳から離れないメロディー」という意味の単語があるらしい。Ohrwurm。Ohrは耳、wurmはミミズという意味なので、日本語でこの単語はミミミミズとなるらしい。わろた。 2015.02.20 Friday
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藤田正勝『哲学のヒント』
● タイトルのとおり、こちらは哲学入門書の体裁をなしている。まず「哲学ってなに」から始まる。その答えは、「誰もが関心を抱く問いについて考えること」。ここで著者は、「夕焼けの空を眺めて美について考えたり、肉親の死を前にして死について考えたり、どのように生きていけばよいのか、善とは何か、真の存在とは何か」と例を挙げているけども、これについては承諾しかねる。こういった高尚くさいテーマを例として挙げるから哲学がめんどくさいもんだと思われるのだ。俺が人に説明するときはいつも、朝目覚ましよりちょっと早く起きたとき二度寝をするか否か考えることも哲学だと言う。ただ、「誰もが抱く問いが対象なので誰もが哲学者と言える」というのはよくわかる。しいて言うなら、哲学の手段とか技術についてとくに探求している者を哲学者とか哲人と言う方が妥当かなあと。お釣りの計算は誰でもするが、誰もが数学者というわけではないから。まあこの程度は誤差だ。 こうして哲学という語のかたちを定めたあとは、比較的話題になりやすいテーマについて章を分けて解説している。生について、私について、死について、実在について、美について、などなど。哲学について関心がある人はたいてい、哲学って何なのか首をひねり、そして上に挙げられたテーマのどれかについて興味を持っているので、方向性を示すものとしてはよい構成だと思う。俺が気になった部分を下に書く。 ● 九鬼周造の論旨、「哲学は生きた哲学でなければならない」「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」。 おおいに同意。現実の生活に活かせないものばっかりあーだこーだやってても、哲学がわけわからん学問だと思われるだけである。 道徳とは何か。カントによれば、「全ての人の人格のうちにある人間性を、単なる手段としてのみ扱うのではなく、同時に目的として扱うように行為すること」。 当然人は他人を利用しつつ生きるものだ。利用だけして、その他人の幸せを蔑ろにするのが「単なる手段としてのみ扱う」ということ。他人を利用し利用され、同時にお互いに相手の幸福を目的として生きていければイーネってことだそう。道徳の定義としてはなかなか妥当だと思う。 こういうような願いや希望を抱き、そのための努力を続けて生活することが、「よく生きる」ということではないかと著者は語っている。けども、「よく」なんていう主観の混じった生き方をひと通りにしている時点で俺はどうかと思う。よく生きるというのは、精神の充足を感じつつ生活することだ。人生に満足しながら生きることだ。そうでなければ、著者のいうようなものだけをよい生き方だとするなら、根っから反社会的にできている人間は決してよく生きられないことになる。そんなのは不公平だ。誰にとっても当てはまるような定義を考え出せないのであれば、「お互いの幸福」なんて語っても説得力はあるまい。 西田幾多郎の語、「純粋経験」=言葉で言い表される以前の事実それ自体。「事実には主語も客語もない」。 完全に同意すぎて頷くほかない。 ざっと読んだ感じ、九鬼周造さんって人と西田幾多郎って人の著作は楽しめるような気がした。ちょっと覚えておいて見かけたら読んでみようかな。 2015.02.19 Thursday
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oras めざパ厳選まで
● めざパのタイプは6つの個体値の偶数奇数の組み合わせで決まるらしい。個体値の仕組みはこないだ把握したので、この程度ならば、理想個体を狙うのでなければ、さらっとできそうである。そんなわけで初代から大好きなサンダースで挑戦してみた。目指すはめざ氷。
めざ氷自体はこれで完成した。ちなみに運用した結果は惨敗。火力も足りないし攻撃も耐えない。うーん……。 2015.02.17 Tuesday
| カテゴリ:ゲーム |
oras 全国図鑑完成まで
● 全国図鑑完成できた。イエー! 収集の流れは以下。 1. ここ見ながらホウエン図鑑を埋める。ASの友達と協力。 2. ここ見ながらクリア後の追加ポケを埋める。ASの友達と協力。 3. ここ見ながらXY限定ポケを一体ずつGTSで埋めていく。 俺の場合は進化前だけざっと捕まえて、ハピナス道場や四天王周回で一気に進化させていく流れでやっている。 ● GTSがよく分かんなくて「XYポケ無理やろ…もう中古XY買うべか」などとトチ狂いかけたが、実はエラい単純で有用だった。GTS。出せるのは一体ずつだが、わりとスピーディに交換されていく。トレードに使ったポケモンは以下。 1. 夢特性ヤヤコマ(これで40%くらい埋まった) 2. ふつうのモンメン(これでもう40%くらい埋まった) 3. エルフーンとかチラーミィ(これで進化が面倒な連中と伝説連中が埋まった) 4. ドテッコツ同士とか、ボクレー同士とか。 BPアイテムが進化条件の連中が面倒だったのだけど、それもエルフーンやチラーミィなど進化の石グループが集めてくれた。伝説は複数もっているが進化の石出すのが面倒な人や、図鑑は埋めてるが手元にコレクションしておく気のない人が出してくれるのかもしれん。 ちなみに夢特性であるとか、6Vであるとかは買い手から確認できない。買い手から観測できるのは売り手が出しているコメントだけである。 ● ねんがんのひかおま。 ● 収集メモ。いっこずつチェック入れていく作業が好き。 あとは幻だが……駄目元で進化の石シリーズを出しておこうかな。一体入手できればあとはわらしべで何とかなるだろう。 2015.02.13 Friday
| カテゴリ:感想文 |
今井むつみ『ことばと思考』
● つかってる言語が違ったら、世界の見方も違うんじゃねえの? という感覚を俺はずっと持っている。この感覚の根底には、「思考は言語によって行われる」という思想がある。 だから、外国語を学ぶことは世界の見方の種類を増やす(=視野を広げる)手っ取り早い方法のひとつだと思っている。他にはたとえば、知らない場所に行く、知らないものを見る、などがある。 この本はその感覚、思考と言語の関係についてのデータを提示し、言語は世界の切り分け方を規定するものだという結論を出している。俺もこの結論に異論はない。普段俺らは日本語流に切り分けられた世界をみているが、外国語を学ぶことで「あ、こういう切り分け方もあるんだ」となって視野が広がる。というのが上で言ったことだ。むろんこの切り分け方の違いは言語を隔てていなくとも、すぐそばにいる人との間でも存在する。それを理解しろ、手前の当たり前が誰にとっても当たり前だと思うのを今スグやめろ、というのが俺の昔からのテーマなのだが……閑話休題。今回はこの本のなかで面白かった部分を書く。どれも言語が思考に影響を与えていると分かる内容だ。あと「へー」ってなる。 ● 1. 言語間における基礎語の差異 「入れる」は"put in"だが、"put in"は「嵌める」も表す。しかし「入れる」は「嵌める」ではない。あるいは、中国語では「手を上にして掌を支えにして何かを持つ」「片手を下にしてモノをぶら下げて持つ」「片手を上にして指で持つ」これらすべてに専用の動詞があるが、英語ではただ"have"だ。一方で英語では「持つ」「運ぶ」では違う動詞だけれど、中国語ではその区別がない。それゆえか、「片手を上にして指で持ちながらモノを運んでいる」ムービーと「片手を下にしてモノをぶら下げて持ちながらモノを運んでいる」ムービーを見せると、中国人は「違う」といいアメリカ人は「同じ」と答えやすいそうである。 2. 色 色をグラデーションで並べ、 〜〜〜青〜〜〜B〜A〜C〜〜〜緑〜〜〜 の部分を抜き出してみる。 そして二種類の人たちを呼ぶ。片方は母語に青と緑の単語をもつ人(アメリカ人)、もう片方は(俺らにとっての)青と緑を同じ単語で呼ぶ人(メキシコの先住民)である。図のAは、青と緑の中間ではあるもののアメリカ人がふつう緑と呼ぶ部分だ。そのAを見せながら、BとC部分の色を見せて、「どちらがAに近いか?」と訊くわけである。アメリカ人は「C」、メキシコの人は「同じじゃね?」と言うらしい。「Aは緑だから、より緑っぽい方が近いだろう」、アメリカ人はそう考えてしまうのだ。こういうのをカテゴリー知覚といって、言葉が俺らの認識を歪ませる現象だという。 3. 冠詞が記憶を歪ませる 英語話者に、クルマが事故にあうムービーを見せる。「ムービーの内容を覚えておいてね?」と言って、である。見せたあとに二通りの質問をする。"Did you see the broken headlight?"そして"Did you see a broken head light?"前者の質問をされた人の方が、"Yes."の割合が高かったそうである。"the"は特定の対象があることを含意した冠詞である。よって"the"付きの質問を聞いた人は、しらず壊れたヘッドライトがあることに同意させられてしまっているのだ。もちろん日本語には冠詞がないのでこんなことは起こらない。 ● さて気になるのが、「で、これ何の役に立つの?」である。緑さんは実用主義なので特にそこが気になる。まずもって、人はみんなそれぞれ考え方や世界の見方が違うんだからソコ理解しろや、という教説が強化される。それと、外国語の勉強をするときの役に立つんじゃなかろうか。 というのも、上で中国語にはモノの持ち方によって単語がいろいろあることを述べたと思うが、中国語を勉強している日本人は「抱える」「背負う」「担ぐ」はちゃんと覚えるのに、「掌で…」「ぶらさげて…」というような中国語の単語は覚えず、比較的意味の広い「持つ」という一単語だけですべて代用しがちだそうだ。これが外国語学習が難しいことのひとつの要因だろう。つまり、母語の情報処理システムが、母語にとってはあまり重要ではない情報を排除してしまうのだ。 俺もルーマニア人に日本語を教えているときよく感じたことである。かれらの作文を見て、「え、なんでここでこの単語を入れる?」と思うことがある。そこで、その部分を英語に直してみると何と意味が通じちゃったりするのだ。何が起こっているかといえば、1. で述べた"put in"現象が起こっているのである。 何で間違うのか、その理屈がわかっていれば間違うことも減るだろう。そういう風にこの理論は使える。 ちなみにバイリンガルはどちらの言語にももう片方の言語の影響が出てしまうようだ。 2015.02.09 Monday
| カテゴリ:みろりHP |
食い倒れの誕生日
● 先週誕生日だったんで知り合いとパーティらしきものをやった。 ヴェジタリアン・パイ、甘口カレー(俺用)、ポトフ、パエリア、たこわさ、椎茸のアヒージョ。そしてたっぷりのビールとジン。ってもうまい! 各々適当に好きなもの作っただけなのでこんなごちゃごちゃなラインナップに。
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