2019.02.27 Wednesday
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緑色さんの多目的ブログ みろりえいちぴー(旧) 引っ越し先 みろりHP: https://www.mrrhp.com ★ 2016.05.29 Sunday
| カテゴリ:プログラミング |
Python ダイスロール用SkypeBot0.1 api不使用
2016.10.30.追記 --- これの改良版をアップ。 http://guild-elf.jugem.jp/?eid=823 --- ● みろりHPのファイル置き場 今週ひさびさに仲間とSkypeでTRPGやってんだけど、やっぱりSkype上でダイスロールができないと不便なんでSkypeBot作った。せっかくなので公開する。コンパイルしてあるんでpython環境がなくても使えるはず。ただちょっと、初期設定が面倒だと思うのでその解説を今回は書く。 こういう感じのBOTだよ。 ● 必要なもの
設定項目(skypeBot.conf)はこんな感じ。
こいつが受け付けるダイスロールの書式は以下
注意点としては、上述したとおりコイツはログを指定秒ごとにチェックするんで、たとえば2秒設定のとき、2秒以内に別の発言が来たらその前のダイスロールは無視される。誰かがロールしたら、譲りあいの心で数秒沈黙するのをおすすめ。あと5桁以上の数値は使えないように設定してある。これは試運転で仲間とのチャットで使ってみたら、某Wちゃんがむちゃなロールをさせてフリーズさせやがったことに対応した結果。 まあ、なんかおかしいなフリーズかなって思ったら問答無用でコマンドプロンプトを終了させて開き直せばいいと思う。 ● 公開は上達の一歩ってことで、DLファイルにはpythonソースも同梱してある。気が向いたら、以上のようなこの非常にメンドロくさい設定項目を自動で埋めてくれるような改良をするかもしんない。やり方はなんとなく思いつくんだけど、仲間と遊ぶとき俺が使えりゃいーやってテンションで作ってたんでそういった親切機能に乏しいんだよねー。 関連記事2016.05.28 Saturday
| カテゴリ:感想文 |
サルトル『嘔吐』
● 2月に読んだボリス・ヴィアン『日々の泡』に、ジャン=ソオル・パルトル『吐瀉物』というジャン=ポオル・サルトル『嘔吐』のパロディアイテムが登場する。それで興味を惹かれて、本書を手に取ったってわけ。ちとむつかしかったけども、物語のサマリと感想を書く。 ● これは30歳独身、アントワーヌ・ロカンタンさんの日記だ。ロカンタンさんは世界中を旅しており見識が広く、学識も豊かで、働く必要のない金利生活者というパーフェクト野郎である。そんなロカンタンさんはそのとき、ブーヴィルという町の安宿に居を定め、ロルボン侯爵なる歴史上の人物にかんする伝記的論文の完成に精を出していた。 あるときロカンタンさんは身の回りの「物」に吐き気を感じるようになった。彼はカフェ・マブリ、図書館に通い、ささやかな人付き合いをしつつ、町の人々に言及しながら出来事に一喜一憂する生活をしているが、そのところどころで「物」に吐き気を感じてしまう。この吐き気の正体は何なのか? ある日ロカンタンさんは押しつけがましいヒューマニストから人間愛の話を延々と聞かされマジでうんざりし、強烈な吐き気の発作に揺さぶられたのをきっかけに、吐き気の正体を理解した。それは「存在」に対する吐き気だったのだ。物の多様性、物の個別性は存在の表面を覆うニスにすぎず、それを剥がしてしまうと、あとには怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残る。ロカンタンさんはそれを見出し、すべての「存在」は「余計」だと結論づける。それぞれの「存在」の本質に個別性がないとすれば、それらはすべて偶然にそこにあるものであり、存在は必然ではないので、すべては「余計なもの」だという筋である。そしてそれは自分自身の存在も例外ではないのだ。 その後ロカンタンさんは昔の恋人アニーと再会する。彼女はロカンタンさんの発見した存在に関する理論に対し、すべての状況には必然があり、「完璧な瞬間」というものが必ず存在するという思想のもと生きる女性だった。しかしいまでは「完璧な瞬間」はありえないことを悟り、「物を見ていると気持ちが悪くなる」と語る。なんとなく自分の状況と似ているような気がしたロカンタンさんだが、アニーは、「あなたはまわりの物が花束みたいに配置されていないからって愚痴をこぼしているだけ。自分では何一つやろうとしない。あなたは冒険が起こる人で、あたしは冒険を起こす人だ」と断言する。 ロカンタンさんは自分が何をすればいいのか煩悶する。というより何もしたくない。何かをするというのは、存在を作り出すことだからだ。だからあれだけ精を出していた論文の制作もやめてしまう。懊悩する彼だったが、音楽を聴いているときだけは吐き気が和らぐことを再発見する。なぜかといえば、音楽の作り出している世界は、始まりも終わりもない現実の存在の世界とはかけ離れた「冒険」の世界だからである。自分は文章を書くことしかできないから、ロカンタンさんは音楽と同じことを小説を書くことで実現しようと考える。最初は退屈で疲れる仕事でしかないだろうけれど、いつの日か嫌悪感なしに自分の生涯を思い出すことができるだろう、と思うのであった。 ● 俺は文学というものを「読み手に書き手の経験を追経験させる装置」(文学はメタファーである2より)だと思ってるんだけど、そのものまさにそういうタイプの本だったな。日記の体裁をとっているせいで話がぴょんぴょん飛びまくり、最初は非常に読みづらく意味不明だったのだけど、作者の意図が分かってからはラクだった。つまり、「文学はメタファーである2」に書いた通り、実体験なしには理解されないような哲学や思想を、それらをメタフォライズしている物語を通して表現するのが目的だってことだ。 ちなみに『嘔吐』の主要な思想は、存在は存在でしかなくそこに意味などない、ってものだと思うんだけど、それはこないだ書いた「人は石である」で言ってるのと同じことだろうたぶん。思想がわかりやすく理解されるために、小説を使うかわりに、「この思想はこういうとき実際に役立つよ」という実用法を合わせて書いたのがあの記事だ。 読んだあとにサルトルについてちょっと調べてみたら、カミュ=サルトル論争というものを見つけた。これはまあつまりカミュとサルトルが思想や主張をぶつけあってバトった論争のことらしく、これを境にふたりは絶交したそうだ。これは偶然なんだけど、たまたま先日カミュ『異邦人』を読んだ。感想文に書いた通り俺はその本にもわりと共感を覚えたんだけど、自分が共感を覚えた本の作者同士が思想をぶつけ合って絶交したっていうのはなんだか不思議な感じがするよなあ。いや、似た者同士のほうが喧嘩するっていうけどさ。 以下、こまごまとした感想など。
重厚な本だった。「意味わからん。要点だけ書けや」などとこぼしながら読んでる俺に、親愛なるルームメイトが「とはいいつついちおう最後まで読めるのってすごいと思うよ」と言ってくれた。「最後まで読まないと感想文でこきおろすこともできん」というなんともな理由でとりあえず最後まで読むようにしてるんだけど、おかげで読書の体力はちょっとずつついてるような気がするね。 2016.05.22 Sunday
| カテゴリ:感想文 |
サガン『ブラームスはお好き』
● 昨年ひとから頂いた本の一冊だけど、いまさら読んだ。サマリと感想を書く。 ● 美しく聡明な39歳女性、ポールさんは幸福な人生を目指し、独立して過ごしている。彼女の付き合っているのは、ちょっと年上の男性、ロジェさん。このロジェさんは浮気性でふらふら生きてるんだけど、心の底ではポールさんを愛していて、ポールさんもそれは分かっている。分かっちゃいるんだけどデートのあとロジェさんがさっさと帰っちゃったあとの夜とかはホント寂しくて勘弁してほしいぜ、って感じの問題を抱えている。これでちゃんと幸福な人生にしていけるんだろうか、と。そんな折に20代の美貌の青年シモンくんと知り合い、シモンくんはポールさんに心底いかれてしまう。年の差なんて何のその、真摯に結婚を申し込むシモンくん。ポールさんはロジェさんとシモンくんの間で揺れ動くことになる。シモンくんは確実に、今後ポールを寂しがらせたりしないし、ふらふらもしないだろう。しかしポールさんが最後に選んだのはロジェさんだった。 ● こないだ『悲しみよ こんにちは』を読んだときとだいたい感想は同じだ。共感とかはとくに持てないんだけど、人の心の描写が緻密すぎてうならずにはおれない。 この小説は、「若い女性」の時期を終えようとしている女性の心理を描いたものだろうたぶん。ところどころでポールさんの、若いシモンへの憧憬かあるいは彼との隔たりについての心理が書かれてるからね。そんでポールさんが最後にシモンくんをフってロジェさんを選んだのは、39歳の自分と25歳のシモンくんが付き合い続けることからどうしても違和感を拭いきれなかったって理由であってんのかな? だがそれにしては、「ポールはロジェと自分の人生を切り離して考えることができなかった」みたいなことがよく書かれてるんだよなあ。それは何故かが書いてないのでサッパリわからん。なんで切り離して考えることができなかったんだ? そもそもポールさんはバツイチで、いちど素敵な男性を捨ててるじゃないか。 あるいは、これは谷崎潤一郎『痴人の愛』と同じ現象が起きてるのかもしれん。これは『痴人の愛』の感想文に書いたことだけど、あの話の主人公は「こういう人が好きです」と公言している人物像と、本当に好きな人物像が違ったんだよ。つまりポールさんは実はちょっとマゾっ気のある人で、前の旦那さんやシモンくんみたいに一途な人が好きとか言っておいて本当はロジェさんがやるような放置プレイにぞくぞくきちゃうタイプだったのだよ。でもポールさんは自分をまともな人間だと思っているし思いたいから、それをはっきり言えず「切り離して考えられない」などとボカしたことを言ってボカしとくしかなかったわけよ。これならしっくりくるし筋が通るぜ。 どっちにしろ俺や親愛なるルームメイトの感性とはちと会わない小説だった。 2016.05.21 Saturday
| カテゴリ:ゲーム |
フリーゲーム「beauty bites the beast」
● フリーゲーム「beauty bites the beast」。HPはここかな。魔物ハンターのいかしたおねいさんと仲間たちが、支神なるパない魔物をノリでやっつけていくお話。つーかまずタイトルがいかしてる。美女、野獣を咬む! いやこれ楽しめたよ。タイトル画面でテンション上がるし、キャラグラが素敵で、キャラのお喋りも楽しい。俺が作品を気に入る基準ってキャラと世界観なんだけど(シナリオやゲームバランスは割とどうでもいい)、今回はキャラがヒットした感じかな。ただちと気になるところがいくつかあるんで箇条書きにする。ちなみに進行状況は、一周目をLv1でクリア、二周目をLv4でクリア、ってところ。 ● 気になるところ
とまあそんなところで不満がないわけでは決してなかったんだけど、楽しめた。あってないようなさっぱりしたシナリオは俺にとって理想的だし、キャラたちの本拠地があってキャラたちと喋れるゲームは好きだ。絵柄が好みだからなおさら。ただ上述の部分がネックで、仲間に勧められるほどではないかなー。アップデートなどでいろいろ変わったりしたらまたわからないけどね。 ちなみに俺のメインメンバは、アルジャーノン、華恋、安慈、イーヴァ、だった。まず安慈が眠眠チョップを打ち(一部の敵を除いてだいたいのボスが昏倒する最強のチョップ)、そのあいだにみんなでTPを溜め、アルジャーノンがバリアを張り(とくに雷魔法撃ってくる敵相手の効果は絶大)、華恋と安慈が最大特技を打ち込みまくる構成だ。イーヴァは全体魔法と全体回復。ほんとうは、キャラグラ的には、エニグマが一番好きだったんで使いたかったんだけど、いかんせん、エニグマちゃん、ちょっと弱すぎ! 2016.05.15 Sunday
| カテゴリ:感想文 |
カミュ『異邦人』
● 親愛なるルームメイトと共に外出の折、俺の希望で図書館に寄り、「うーん何借りようかな…」「借りるなら早く借りろ」「ま、マテ、決まらない……もーこれでいいや、薄いしスグ読めそう」と適当に手に取ったのがコレだった。主人公が俺と似たような感覚と価値観をもった人だったから、共感できて楽しめた。適当に手に取ったのがコレだと、ちょっとした運命を感じていいですね。サマリと感想を書く。 ● 勤め人をやっているムルソーさんが主人公。ある日かれのもとへ、養老院に入れた母親の訃報が届いたところから話は始まり、葬式の翌日に旧知の女性と再会し、ちょっとした恋人関係になる。彼女はムルソーさんに結婚を申し込み、ムルソーさんは、自分はきみをとくに愛してもいないけど、きみがやりたいなら構わんぜ、と承諾する。このことからわかるようムルソーさんは人に親切なので、隣人の女性トラブルに手を貸したり、ちょっと嫌われ者の老人にも優しくしてやっている。うるさ型の上司にもただイラつくことなく、まあ相手の気持ちもわかるしなあ、と度量の深い男だ。ある日隣人づきあいで海水浴へ行くと、女性トラブルの件で因縁のできてしまったアラビア人と遭遇し喧嘩になり、銃で撃ち殺してしまう。 ムルソーさんはとっつかまり、裁判にかけられる。付き合いのあった人たちはみんな彼に親切にしてもらっていたので有利になる証言をしてやるのだが、ムルソーさんとしてはそこまで減刑に積極的でもなかった。そういう態度や、彼が母親の葬式であんまり悲しんでないようにほかの人から見えたことが原因となり人間性を疑われ、裁判は不利な方向へ進んでしまう。裁判のやりとりや駆け引きにくたびれてへとへとのムルソーさんだったが、あるときやってきた司祭のあまりに上から目線の物言いと押しつけがましい憐みの言葉にさすがにブチギレ、感情のままに怒鳴りつける。それですっきりしたムルソーさんは、晴れやかな気持ちで処刑の日を迎えるのだった。 ● ムルソーさんに強く共感できたのはたぶん、彼が理性に重点を置いており、かつ理性に従って生きることがとても誠実なことだと考えている人間だからだ。ただわりと多くの人は感情をとても大事にしており、理性的なふるまいを徹底する者に厳しいところがあるんだよな。ムルソーさんに結婚を申し込んだマリイちゃんなんかはその典型で、結婚を望み、その要求を「愛はないがきみが望むなら」とかなえてやったムルソーさんに対し「私はあなたのそういうところが好きなんだけど、いつか同じ理由であなたが嫌いになるかもしれない」などとのたまう。いや、こういうことって俺も何度か言われたことがあるのだが、ええー、そういうのわざわざ俺に言う? って思っちゃうんだよな。大人なんだから、自分の好悪くらい、自分の責任で扱ってほしいものだ。なんかその言い方じゃ、俺のせいみたいじゃん。勘弁してくれ。しかもそういう子って、「愛はないがきみが望むなら、なんてのは勝手な予防線だ」とか言い出すんだよ。「全部私の責任にしようとしてる」って言うんだよ。大人なんだから自分の望みの責任は負えやー! こっちは親切で提案を受けているんですよ!? いや信じられないかもしれないけど、マジでいたんだって。3人くらい。いやまあ、マリイちゃんはそこまで言わなかったしその後の振る舞いも上品なものだったけどさ。 上述の通り、親切であるというのがムルソーさんに共感できる理由のふたつめだろう。客観的にみたら彼が親切にした隣人というのも女をぶん殴るようなやばい男なのだが、まあ、そういう世間的な善悪もあるだろうけど、目の前で助けを求められたら、手を差し伸べたくなっちゃうよね。 そんな素敵で、潔癖さすらあるムルソーさんが処刑になってしまうことに関してだが、んー、これはなあ。裁判や処刑なんてのは、言ってみれば人間社会というひとつの生命体が行う暴力だ。暴力から逃げる方法なんてのは、従順になることしかない。理性的で、自分のルールを自分で作り上げて自分なりに誠実に生きている人間にとって、暴力から逃げるために主義を曲げたり、従順なフリをするのはイヤなものだ。ムルソーさんはそれをしなかったから殺される。それだけのことだ。ちょっと残念だけれども、従順になることを選んだって彼の筋の通った生き方が死ぬことになるんだから、これはなあ、ムルソーさんの口癖どおり、「どちらでも同じこと」だろう。 「どちらでも同じこと」については、「人は石である」みたいな考え方がムルソーさんの根底にもあるんじゃないかなーと思いながら読んでた。 一見理性的に見えても根幹がブレッブレのキャラが多くいるなか、ムルソーさんは見ていて気分のよい主人公だった。感情を理性で抑え込むといっても性欲などはちゃんと認識し表に出していて、欲の扱いも手馴れていると思うしオトナでよかったよ。「どちらでも同じこと」とか言ってると「お前には欲求がないのか?」などとツッコみが入ることもあるけれど、それは的外れの指摘といえよう。何を選んでもそれなりに楽しむし、何が起きても自分のがんばり次第でなんでも楽しめるものだ。「どちらでも」というのは「固執しない」ということであり、「何にも価値を見出していない」ということではない。むしろすべてに価値を見出すことが「どちらでもよい」の神髄だと俺は思っている。 2016.05.12 Thursday
| カテゴリ:みろりHP |
自転車旅行 養老の滝
● 親愛なるルームメイトの提案により、GWは一泊二日でサイクリング旅行にいってきた。 ● 目的地は岐阜県は養老町、養老の滝だ。 駐輪場からしばらく山道を歩くんだけど、風光明媚だったよ。 俺は自転車をもっていなかったんだけど、ルームメイトが調達してくれた。 ● 俺はフットワークはあるんで軽い乗りで二輪車旅行もマラソンも海外も行けちゃうんだけど、根が引きこもりなんでひとりだと何にも出かけないんだよな。だから俺のエンジンをいつもキックしてくれる我が家の企画担当には感謝してる。 2016.05.05 Thursday
| カテゴリ:プログラミング |
Python PHP 名前空間とnamespace
● 「名前空間ん? なんじゃそら」ってのも今となっては昔の話だ。オライリーを読んだらだいぶん理解できたと思う。でもちょっと調べなおしていたら、PHPには namespace なる宣言が存在することを知った。pythonにそういう構文があることは知らないぞ? ってことは俺、pythonにおける名前空間に関して何か見逃していることがあるのでは!? ……と危機感を覚えて調査してみた話。 ● 以下のようなシチュエーションを想定すると、名前空間の重要性がわかりやすいかもしれん。
● まずはPHPの namespace について。同名のファイルは同じディレクトリに置けないから、 fromAsan fromBsan (Aさんからもらった便利モジュールと、Bさんからもらった便利モジュールって意味)というディレクトリにわけておいておくとする。
するとmain.phpでは、同名のファイルを複数読み込むことができるようになるのだよ。
……いやマテ、
● 上の例では各モジュールを相対パスで読み込んでいるので、どっちのsuperBenriToolがfromAsanでどっちのsuperBenriToolがfromBsanなのかすぐわかる。ただ俺の場合は、「奥義:相対インポートなんていーらない」(コンソールプログラムのexe化とかで触れてる)をよく使っているんだ。これは sys.path にモジュールの入ってるディレクトリを自動で全登録し、いちいち相対インポートの書き方をしなくてもサクッとインポートが行えるようにする技だ。すわ奥義を使ったら今回のような状況に対応できないのではと思ったが……
2016.05.03 Tuesday
| カテゴリ:感想文 |
サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
● なんか目に留まったんで読んだ。すげー面白かった。バスの中でしばしば吹き出しちまったよ勘弁してくれ。サマリと感想を書く。訳は村上春樹。 ● 臆病で勉強も運動も人付き合いも微妙で、ただ人や物事をこきおろす語彙だけがめちゃめちゃ豊富な少年、ホールデン・コールフィールドが退学になった学校の寮を出て、家に帰るまでの物語だ。 インチキくさい学校とくだらないルームメイト、とんちき寮生たちにうんざりして予定より早めに寮を出たホールデンは、カスな同級生の素敵な母親に出くわしたり、ハリボテバンドが演奏するしけたナイトクラブでうすのろ女たちとダンスして気が滅入ったり、いつもかりかりしているタクシー運転手に面食らったり、旧知の女性と喋って退屈死しそうになったり、ポン引きとひと悶着起こして大泣きしたり、感じのいい尼さんたちとお喋りするものの些細な自分の粗相に落ち込んだり、嘘くさい女友達とデートしてる最中に相手をスカスカ女呼ばわりしてキレさせたりする。つまりホールデンはろくでもない落ちこぼれで、それを自分でも自覚しているのだけど、彼にとっても世界のすべてはインチキくさくて、嘘くさくて、ろくでもないものに見えている。けれどだからといって自暴自棄になったり、何かを変えてやろうなどとは露程も思っていない。ただインチキくさくて嘘くさくてろくでもないなあと思っているだけだ。 そんなホールデンには愛する妹がいて、ホールデンが「ヒッチハイクして西部へ向かう」などと妄言をのたまったときに泣きながら自分もついていくと言ってくれるようなよい子だ。ホールデンとしてはもう色々なものにうんざりして旅立つつもりだったのだが、この妹に泣かれては仕方ないと家に帰ることになる。 ● ホールデンくんの言葉遣いや行動がほんとに俺を笑かしてくれて、マジに楽しめた。語彙力と思考経路が豊富すぎるぞ、ホールデン。学校の成績はクソ悪いのだろうけれど、それは学校の評点制度が彼の感性と合っていないだけだ。彼がスピーチのクラスに対する不満を語るシーンでそれが発露している(そこでもクラスの先生のことを「知的ではあるんだけど、どう考えても脳味噌ってものが不足しているんだな」ときっちりこきおろしをやっていてもう拍手喝采するしかないだろ)。まあ小説の語り手がバカ設定と反して語彙力豊富っぽく見えちゃうのって仕方ないことだとは思うけれど、世の中に不満があり、かつ孤独な奴って、その不満を認識するために語彙力が豊富になるものだから、ホールデンが語彙力豊富なのは妥当なことだと俺は思う。 「つまり僕は思うんだけど、少なくとも誰かが何か面白そうなことをやっていて、それに夢中になりかけてるみたいだったら、しばらくそいつの好きにさせておいてやるのがいちばんじゃないのかな。そういう具合に夢中になりかけてるやつを見てるのって、なかなかいいものなんです。」こいつのどこが落ちこぼれなんだってくらい健全な哲学をもっているよなーホールデンは。 というわけで大笑いしながら読んだ一冊だったんだけど、一冊の本という単位で何を言いたい物語なのかはよくわからなかった。思春期の世の中の見方をメタフォライズするのが目的なのかな? 同じく村上春樹訳を読んだことがあり、気に入っていると言っていたルームメイトに「どこが気に入ったの?」と感想を訊いてみたんだけど、「さあ? 読んだとき何か気分がよかった」とだけ言っていた。そんくらいの感想でいいのかもしんないね。 「村上春樹訳」について。俺は村上春樹の文章がとても好きなので、この訳書の文章もとても気に入った。ただ今回この人、訳注で自分を主張しすぎだ。「これは〜という意味で、ホールデンは〜ということが言いたいわけだ。」みたいな訳注が多いが、「いや、お前が喋りかけてくんなよ」と思っちまう。訳注は「これは〜という意味だ。」だけでいいのだ。さらに巻末、「本書には訳者の解説が加えられる予定だったが原著者の要請により不可能になりました残念です」みたいなことを書いていやがる。別に書かなくていいだろそれは。まるで原著者が狭量でケチくさいかのような印象を与えてしまうだろうが。蛇足だ。そこらへんが「残念」だったよ。 ● 俺が本書を読んだあと、上述のルームメイトと「ホールデン症候群」が流行った。ホールデンくんは地の文でやたら数字を大げさに描写することがある。ことがある、というかめちゃめちゃある。「アックリーはそのろくでもない写真を、少なくとも五千回くらいは手に取っているはずだ」「その子はジーンズの上に二十着くらいのセーターを重ね着している」「彼女は机のところに行って百万個くらいの引き出しを開けて中をごそごそと探る音が聞こえた」、こういうやつだ。それで俺たちは「もう二十時間くらい自転車こいでるよな」「おなかペコペコで牛丼30人前は食べれる」とかいって遊ぶわけで、「ホールデン症候群」とはそれを指す。
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