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緑色さんの多目的ブログ みろりえいちぴー(旧) 引っ越し先 みろりHP: https://www.mrrhp.com ★ 2016.12.31 Saturday
| カテゴリ:みろりHP |
2016年総集編
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● 今年もいろいろやったし全部楽しんだ、例年どおりの年だった。来年もきっと同じような最高の年となるだろう。 2016.12.30 Friday
| カテゴリ:ゲーム |
デビルサバイバー2ブレイクレコード コンプまで
● 年内にコンプできてよかった。気に入っているエンドは、セプテントリオン編が憂う者ルート、トリアングルム編がサダクルート。ってどっちもサダクじゃねーか。このゲームのキャラにはたいして共感ができないんで、ソロルートに入っちゃう傾向にあったのかもしんね。 しかし7周ってのは俺にしてはよくやったものだよなー。ぶっちゃけ後半は意地だったぜ。大晦日までに、しっかり一本コンプしておきたい、って思って。これだけやりこんで思ったことがある。こういった「エンドをコンプする」プレイはやめたほうがいい。1周目のプレイでは、コンプのこととか考えてないから、ゲームに没入して自分の感じるままの選択肢を選んでエンドを迎えるわけだ。余韻も残るし思い入れを感じる。でもエンド条件を埋めるために選択肢を機械的に選びつづけているうちに、最初の感動が薄れちゃうのだよな。1周目では主人公の気持ちになって他キャラたちとコミュニケートするのを楽しんでたはずなのに、ただのキャラクターとしか見れなくなっちゃうんだよ。コンプできた嬉しさはあるけれど、それよりもゲーム世界に浸かった気持ちをキープするほうが俺にとってはいいんじゃねーかなと思ったわけだ。 「エンドをコンプする」プレイについての弊害を書いたが、これは実はエンドのコンプをもうちょいイージーにすることで解決できるんじゃないかとも考えた。というのもこのゲーム、周回がクッソ面倒なんだよな。もし、サバイバーズ・アワードが全データ共有でさ、エンド分岐前にセーブしとくだけでサクッとエンドを見れる仕様だったら嬉しかったな。最初の感動もあまり薄れないだろうし、プレイ時間もこんなに膨れ上がらなかったろ。2周目の敵追加もあるから結局周回はあることになるけど、2周くらいなら全然構わないぜ。7周はやらせすぎだろう。 とはいえ。7周もやれたってことはこのゲームはとっても気に入ったってことになるよな。楽しめたよ。俺はSRPGは結構好きかもしんない。あとキャラゲーも楽しめるようだ。 エンド以外のサバイバーズ・アワードの難度は丁度いいと感じた。メガテン4FINALでは悪魔全書コンプを諦めた。それはコンプに運が絡むからだったけど、今回はそんなことない。フリーバトルをこなしてお金を貯めれば絶対コンプできる仕様だ。この点も、俺としては好感。 ● パーティは基本的に「MP回復用の魔王系(覇王の盟約持ち) + 移動のための夢幻の具足持ち」だった。夢幻の具足は行動ディレイが少ないのがいい。しかし高レベル帯にはヘイムダルしかおらんので、仕方なく魔人(異界の住人)にチェンジした。魔人連中はMP消費がハンパないが、魔王がカバーしてくれる。ステータス振りは「魔:体:速=2:1:1」くらいで。 強敵の対策を以下にちょろっと。
● ストーリーのサマリをちょろっと書いとく。 世界の管理者ポラリスが人間を存在不適切と断じ、セプテントリオンなるバケモンをけしかけ世界を無に帰そうとする。だが元・ポラリスの剣であるサダクさんは人間をめっちゃ気に入っており、それを憂うと共に、人間の可能性を試すため悪魔召喚の力を与えてくれた。おかげでセプテントリオンを叩きのめすことができ、ポラリスに謁見するところまでこぎつけることができた。しかし、どんな要求を叩きつける?(というところでエンド分岐。)そして人間が選択したのは、ポラリスを叩きのめし、サダクさんに世界を回帰させてもらうことだった。これなら壊れた世界ももとに戻るし、バケモンをけしかけてくる管理者もいなくなるしで万事オッケーだぜ! で回帰をした世界で人間はちょっとずつ成長しているように見えたが、今度はトリアングルムなるバケモンが襲ってきやがる。今度はポラリスじゃなく、新管理者アルクトゥルスがやってきやがったのだ。おいサダクさんどうなってんだ管理者また来てんじゃねーか、となるわけだが、実はポラリスにとってのセプテントリオンみたいな「剣」をもっていないサダクさんには管理者となる資格がなかったので、新しい管理者が来ちゃったというわけらしい。まあ、じゃあ仕方ないのでまた悪魔召喚をつかって管理者を潰し、さらにはもっと上層の世界管理システム、カノープスもやっつけちゃおうということに。そして管理システムの外に新しい世界を作り管理システムからの脱却を目指すか、新しい「親人間」の管理者を立てるかなんかすれば、管理者に襲われまくる問題は解決するだろう、となる。(ほんで俺の好きなエンドが、)選んだ道は、主人公を管理者的存在に書き換え、サダクさんを剣とする管理者に据えることである。これにてめでたし。 2016.12.29 Thursday
| カテゴリ:アコギ |
アコギ B'z『いつかのメリークリスマス』
● また一曲公開する。なんとか今年中に間に合ったぜえ。 オリジナルは5分くらいあって大変なので省略してる。つーわけで初のアルペジオ+インストゥルメンタルだ。もともとこういう演奏がやりたくてギター買ったんで、ようやくトライできて嬉しくはあるんだけれど、いやー、難易度たけーな。一音一音が目立つので押さえの甘さが丸分かりだ。これまでのストローク+ヴォーカルはそのへんだいぶ誤魔化しがきいてたもんなあ。でも、楽しめてるぜ。 ● 改めて聴くとホント粗だらけだなしかし。自分で言うのもなんだが、手前の演奏を公開する羞恥心に負けないってのは才覚といっていいよな。はは。さて次は何の曲をやるかな。 2016.12.26 Monday
| カテゴリ:感想文 |
柳田國男、京極夏彦『遠野物語remix』
● 柳田國男さんが1910年に発表した『遠野物語』を、京極夏彦さんが現代語訳 + 章の順番をテーマごとに入れ替えたりして読みやすくしてくれたものみたい。サマリと感想を書く。 ● 遠野郷出身の佐々木さんが話す、故郷のお話。それがなんとも面白かったんで、柳田さんがそれを書き留めたのが『遠野物語』だ。遠野郷ってのは、附馬牛、土淵、松崎、青崎、上郷、小友、綾織、鱒沢、宮森、達曽部の10村からなる風光明媚なところではあるんだけど、聞くだになんともヤッバイところみたいだ。たとえば……
そしてキメ台詞。願わくはこれを語りて、平地人を戦慄せしめよ! ● いやあ読みやすかった。巻末にオリジナルの『遠野物語』も載せてくれてるんだけど、うん、まあ、100年という月日を感じさせる読みづらさだったぜ。やっぱし文学作品ってのは50年周期くらいで現代語訳をすべきだよな。今回とっても楽しめたから、余計にそう思うぜ。しかも今回は、章の順番を入れ替え世界に浸りやすく編纂してくれてたんでナイスな現代語訳だと感じた。山中の郷の説話集だから、なんか望郷的な気分になれてよかった。故郷が遠野と似た諏訪の山中だからなおさらな。諏訪にはバケモンはいなかったけど。 あんまりバケモンバケモンした話ではないんだけれど、三人の女神姉妹がそれぞれ宿っているという、早池峰山、六角牛山、石神山の話が結構好きだった。これらは遠野郷を囲む山々だから、遠野郷は神に囲まれた土地でもあったって話。これらは現代もふつーに存在する山々なんで、なにかの折に訪れることがあれば思い返すことにしようぜ。 なお東方好きの俺としては『遠野物語』といわれて浮かぶのが『遠野幻想物語』だったりするのだが、ちゃんとマヨヒガに関する話も含まれていたぜ。山中にある不思議な家マヨイガ。 2016.12.23 Friday
| カテゴリ:アコギ |
アコギ Taxi『No Smoking』
● また一曲公開する。 これも先回の『Cele două cuvinte』と同じくTaxiの曲。先回と比べて歌詞が鬼でな……ぶっちゃけギター部分はめちゃめちゃ簡単なのだけど、歌だけで数週間かかっちまった。 ● ギター弾いたり、歌ったりしていると、バンドの演奏のレベルの高さがより一層感じられて楽しい。これまで聞き流していた、曲の間奏部分なんかにも自然と耳が傾くようになって、いやマジうめえな、と感じる日々だ。今回の曲でもDan Teodorescuのヴォーカルを聴き返すたびに、いやマジすげえな、と惚れ直しちまう。自分で歌ってみると、すごさが再認識できる。 マラソン出てみれば、ガチのランナーのすごさがわかるし、絵をかいてみれば、ツイッターの絵師たちのすばらしさがわかる。広く浅くってのはなかなか悪くないよな。手を広げたぶんだけ、世界の輝きがはっきり見えてくるものなんだろう。 あー、あとyoutubeに投稿してる人たちの録音技術の高さにも気付く。やってみると結構大変なんだぜ? キレイに録音しようと思ったり、音量調節するの。俺の録音はかなり聞こえづらいよな。録画と録音のデバイスは分けて、マイクはもっと自分のそばにおいたりすればいいのかなあ。 2016.12.22 Thursday
| カテゴリ:感想文 |
村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』
● 気楽に気分のよい読書タイムをエンジョイしたいときは、村上春樹を手に取るにかぎる。俺は彼の文章が大好きだ。平易で清潔で整頓された感じがして、気分が整理されていくのを感じる。これは短編集なんで、お話ごとのサマリと感想を。 ● 中国行きのスロウ・ボート
貧乏な叔母さんの話
ニューヨーク炭鉱の悲劇
カンガルー通信
午後の最後の芝生
土の中の彼女の小さな犬
シドニーのグリーン・ストリート
● 気楽に気分のよい読書タイムをエンジョイできた。この人の文章が大好きだ。 2016.12.05 Monday
| カテゴリ:感想文 |
村田沙耶香『コンビニ人間』
● 親愛なるルームメイトがもってたんで借りて読んだ。サマリと感想を書く。 ● 古倉恵子ちゃんはガキんちょの頃からめっちゃ合理的な奴だった。小鳥が死んでるのを見れば鳥料理が好きな家族のために持ち帰ろうとするし、男子がケンカ中の教室で誰かが「誰か止めてっ」と叫べばようし任せろとばかりにスコップで殴り倒し「止めたよ」とキメる。親切で、合理的かつストロングな娘である。ただ周りの連中にはドン引かれ、そういう行いが社会では認められないものなんだと自覚する。なるたけ自発的に行動しないよう心がけ、妹の助言で最低限の社会的ふるまいも覚えて慎重に過ごしていた恵子ちゃんだったが、すべてがマニュアル的に活動するコンビニエンスストアという聖地を発見する。ここなら、全部マニュアルに従っているだけで、ドン引きもされないし逆に評価されるのだ。やったぜ。 そんなグレートな環境で働き続けはや18年、恵子さん36歳。またもや周囲の連中がうるさくなってきた。36歳で未婚で恋愛経験もなく、アルバイトしてるなんてどーよ? というわけである。妹から授かった切り札「いやあ、ちょっと持病があってさー大変でさー」もそろそろ効かなくなってきた。面倒なことになってきたぞ。そこで発見したのが白羽さんという35歳の男性。こいつは人々に干渉されるのに辟易してる奴だ。恵子さんはいいアイデアを思いつく。こいつと一緒に住んで結婚とかすれば、周りの連中も黙るんじゃないか? と。白羽さんも食費と寝床を出してもらうのと引き換えに恵子さんちに住むことを承諾してくれた。効果はてきめんで、「男と同棲!? よーやく恵子ちゃんもまともになったか!」とみんなが祝福してくれる。その流れにのせられて、恵子さんはコンビニバイトを辞め、企業に就職を試みることになる。結婚して、白羽さんが主夫、恵子ちゃんが稼ぐ、って感じの形になれば、もうわりと一般的だから周囲も受け入れてくれるって寸法である。 いよいよ一社目の面接日となった恵子さんだが、たまたまコンビニへ立ち寄ったとき、初めてコンビニへ属したときの思いが蘇った。全身の細胞がコンビニのために作り変えられていくような、コンビニ店員という動物として生まれ変わるような気持ちだ。白羽さんはぷんすかで、「絶対に後悔するぞ!」と忠告してくれるが、恵子さんは「一緒には行けません。私はコンビニ店員という動物なんです。」と毅然とした態度だ。そして恵子さんはコンビニへ戻っていくのだった。 ● スゲー読みやすかった! 緑さんの「主人公が親切で合理的で人間らしくてステキ」セレクションがまた増えてしまったぜ。他のはカミュ『異邦人』と西尾維新『悲鳴伝』と筒井康隆『旅のラゴス』ね。こうして並べてみると、ムルソーさんも空くんもラゴスさんも恵子さんも、ほんと好みの連中だよ。親切で合理的で人間らしくて、なにより行動力があるところがいい。ぐんぐん話を進めてくれる。人間としてデキているので、内的な問題が少なく、ゴールをサクッと定めて動き出してくれる。ストーリーテラーとして最高の役者だよ。ってこういうこと前も書いたっけか。今回のお話についても、恵子さんの最後の毅然とした態度に痺れる。俺はやりたいことをはっきり口にできる奴が大好きだ。 このお話のテーマとしてはやっぱり自分探しだろう。言い換えると生き方探し。夏目漱石『坑夫』と同じ。「いまの自分の居場所が自分にとって最適なんだが、ちょっと違う環境に身をおいてみると、もともとの居場所が最適だったことがよりいっそう際立っていいよね!」ってやつね。恵子さんは18年間聖地であるコンビニにいたから、それに慣れちゃってて、その価値にも慣れちゃってたんだろう。だからちょっと周囲の連中に突っつかれたくらいで「んー、ちょっと身の振り方変えてみようかな」ってなってしまった。だが最後にはもとの居場所の素晴らしさを認識し、めでたしめでたし、って流れだ。いやちょっと責めるような言い方をしちゃったが、こういう冒険はちょくちょくしたほうが楽しくていいと思う。冒険をたくさんした奴ほど、いまの自分と自分の居場所に自信をもっている。たくさん歩いた奴ほど、背筋が頑丈なものだ。それに恵子ちゃんが冒険しようと思った動機には少なからず妹さんや白羽さんへの親切心があるわけだろ。いい奴だよ。恵子ちゃんの周囲の連中は見習っときなさい。ほんと。 同じテーマである(だと思う)『坑夫』では、主人公のボンボンはめっちゃヘボい野郎だったので、結果として「ヤなことあったら環境かえてみ」っていう教訓話になっちゃっているけれど、『コンビニ人間』では恵子ちゃんが立派なおかげでまったく教訓話めいちゃいないな。むしろ、「うむ、せやろな」って思いを与えるお話って感じだ。こっちのほうが俺は好き。うむ、せやろな。いやーよかったよ。 AMAZON2016.12.03 Saturday
| カテゴリ:感想文 |
チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』
● サマリと感想を書く。 ● ヨーロッパによる武力鎮圧前のアフリカ。ウムオフィアという村に、オコンクウォさんという村一番の屈強な戦士がいた。彼はめっちゃ強くてよく働き一代で納屋をヤム芋でいっぱいにし、子供をめったに褒めず、妻たちを力で従わせる、そして「弱さ」を憎む男の中の男だ。その男らしさの背景には、ろくでなしの父親の存在があった。オコンクウォパパがろくに働かず借金ばっかりするへたれだったので、それを反面教師にオコンクウォさんはがんばってきたのである。まあ、いまの社会ではアッという間にDVで豚箱に叩き込まれるところだが、ウムオフィアではそれが正当なことだったのである。客が来たらコーラの実を割って歓迎し、巫女さんにはときおり神様がおりてきて、双子は悪しきものだから悪霊の森へ捨ててきなさいという、そんな社会なのだ。そんな社会なので、長老たちがオコンクウォさんに「お前の子供は殺すことにする」と宣告したときも彼は素直に従った。もちろん名残はあったが、その気持ちは彼にとって「弱さ」だった。弱さを皆に見せることを恐れ彼は自分で息子を殺してのけた。それ自体はまあいいんだが、そのあたりから彼の不幸が始まったのである。 というのも、村のお偉いさんの葬式に参加してるとき、うっかり彼のもつ銃が暴発してよそんちの坊主を殺しちゃったのだ。これはウムオフィアでは女型の殺人といって、7年間この地を去ればOKっていう罪だ。永久追放でないだけマシではあるが、村での出世街道驀進中だったオコンクウォさんはこのことをひどく厭う。なんでこーなっちゃうんだよー。だが彼は屈強な男なので、逃れた親族のもとでもしっかり働きヤム芋をたくさんこしらえて過ごす。たいした男である。さてそんなことをしてるうちに、ウムオフィアには白人の影が伸びつつあった。宣教師がやってきてキリスト教を広めたのである。ウムオフィアの人たちにも独自の信仰があるのでえらい反発されるが、その信仰の中で虐げられていた人々……大地の神が言ったからっつって子供を殺された連中や、生まれから迫害されていた階級の連中はキリスト教に改宗していってしまう。やがてそうでない人々も……。オコンクウォさんがウムオフィアへ帰ったころには、もうそこはかつてのウムオフィアではなく、男たちは神々を冒涜せしキリスト教会を叩き潰してやろうって気概もない骨なしチキンになってしまっていた。白人たちは一族を固く結びつけていたものにナイフを入れ、ばらばらにしてしまったのだ。 白人たちは武力で彼らの法をウムオフィアに押し付け、人々を投獄し、釈放料を求めた。オコンクウォさんはひとりで白人に立ち向かったが、続くものは誰もいなかった。彼は、白人たちにも、ウムオフィアにも受け入れられない人間となってしまった。彼は首をつって自殺。ウムオフィアのルールで、自殺したものは一族の地に埋葬されることはできない。一族に殉じようとした男は、一族のもとに還ることもできないのだった。 ● 俺も現代人のはしくれだから、ウムオフィアのルールはマジいかれてんなと最初は思った。けど、連中が楽しそうにコーラの実を割ってたり、ヤム芋を溜め込んだり、結婚の儀で意味不明ではあるもののなんか歴史があるっぽい儀式とかやってんのみると、なんとなく望郷的な思いになって、ウムオフィア社会がちょっと輝いてみえた。その人々が、最後白人によって「ニジェール川下流域における未開部族」という一言のもとに切って捨てられるところ、めちゃめちゃゾクッとした。「未開部族」って。このゾクッはあんまり経験なかったものなんで、今回はいい読書だったと思う。 ぶっちゃけ、かけ離れた文化ってファンタジーみたいなものだからな、今思えばあの望郷の思いはファンタジー世界に対する羨望と同種のものだったかもしらん。 この作品で表現されてるのは、欧米諸国とキリスト教がどうアフリカの人々の生活と習俗を破壊していったかの描写だろう。ただ、破壊とはいってもキリスト教の入り込む余地ってのはもともとたくさんあったんだよな。全編にわたり、ウムオフィア社会の習俗に対する人々の不満点はちょくちょく書かれていたわけだし。双子は不吉とされてるから殺せ! とかな。そういう描写は全部キリスト教侵入の伏線になっていたといえる。であれば、最後白人社会の到来によってその伏線が全部回収されたことになるわけで、それも読後のすっきり感につながっているんだろうな。 文章はとても読みやすかった。話の流れも理解しやすい。現代とは全然ちがう文化の生活を描いているだけに、まったくなじみのない風俗や単語が出まくるんだが、同量の注釈がそのページ内に付されてるんでわかりづらいことがまったくなかった。翻訳者さんは長いこと注釈を付すか否か迷ったそうだが、俺は楽しめたと言っておくぜ。 翻訳者さんによる後書きにこんなこと書いてあった。翻訳作業中、「アチェベがいま、日本語でこの小説を書いたらどんなふうになるか」、この言葉がつねに立ち返るべき原点となっていた、と。うんうん、どんな作業を行うにしてもこういう一本の柱があるのはよいことだよな。いい文章でした。 関連記事
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