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緑色さんの多目的ブログ
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村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』



気楽に気分のよい読書タイムをエンジョイしたいときは、村上春樹を手に取るにかぎる。俺は彼の文章が大好きだ。平易で清潔で整頓された感じがして、気分が整理されていくのを感じる。これは短編集なんで、お話ごとのサマリと感想を。



中国行きのスロウ・ボート
  • 「僕」が人生の中で出会った三人の中国人との思い出話。
  • もちろん文章はステキ。なんだけど話の意味はよくわからん。どこにいってもそこは自分の居場所ではないと感じる「僕」の気持ちを、同じく「本来の居場所である中国」から遠く離れた中国人たちと重ね合わせているのかな? 「友よ、中国はあまりにも遠い。」

貧乏な叔母さんの話
  • 「僕」が書いた貧乏な叔母さんの話。貧乏な叔母さんってのは、結婚式に出席しても誰にも紹介されず誰からも話しかけられず、贈り物をしても押入れの奥にしまい込まれるか引っ越しの折に捨てられるだけ、というような物寂しい者のことだ。
  • よくわからん。でもとりあえず貧乏な叔母さんのイメージ描写がふんだんに盛られてて笑う。村上さんがこの種の物寂しいイメージに「貧乏な叔母さん」という形を与えることを思いつき、それを「僕」が言っているのと同じように、それをテーマにひとつ書いてみたい、と思って書いた話なんかな。

ニューヨーク炭鉱の悲劇
  • その年は「僕」にとっておそろしく葬式の多い年だった。「僕」は喪服をもってないんで、葬式があると友人に借りてるんだけど、今年はマジで多いからホントいつもごめんねって言いながら訪ねてお酒飲みながらちょっと喋ったりする話。
  • いやもう、な。それと、動物園の話とかパーティでヘンな女にヘンなナンパをされかけたりするんだけど。まったく意味がわからん。今のところどの話も意味不明なんだけど俺の読解力大丈夫か?

カンガルー通信
  • デパートへの苦情を処理する「僕」が、ひとりのお客に苦情の返事をカセット・テープで送る。あなたの苦情は却下されちゃったけど、あなたの手紙はとっても魅力的で、文章、筆跡、句読点、改行、レトリック、何もかもが完璧でした。それは僕を性的に興奮させます。でも僕という個体があなたと寝ることを希望してるんじゃなくて、僕がふたつに分割され、あなたと寝ていない僕がありながら、あなたと寝たいのです。
  • みたいなマジキチ・メッセージの話。さすがの俺でもここまでくればこの短編集の役割がわかってくる。互いに繋がることなんてないような、そして言葉にもできないような、断片的な思想や思いをひとつずつ取り上げて、それに「ちょっとしたストーリー」という形を与えるのが短編のもっている意味なんじゃね? この話でいえば、「僕が僕であるという個体性を厭う」という思いを、ひとことで主張するんじゃなく、ストーリーにして、ゆっくりと語らっている。たぶんね。

午後の最後の芝生
  • 「僕」は19歳。芝刈りのバイトをしてたんだけど、恋人と別れるに伴って辞めることにした。ほんで最後の芝刈りに向かう。「僕」はものすごく丁寧に芝刈りをする奴で、そこんちの奥さんは喜んで、身の上話やらサンドイッチやらをご馳走してくれる。終わったあと恋人と別れることになった理由を考えてみると、こんな感じだった。「僕が求めているのは芝を刈ることだけなんだ」。
  • 「人」よりも「きちんとやること」に関心をもつ、ということがテーマだろう。芝刈りの下りで「僕」がどんなに芝刈りに熱心で、かつ人の感心をかうレベルなのかを描写し、恋人の下りで、その傾向が人へ向かう思いよりも強いことを表現してるんじゃないかな。気持ちはよくわかるぜ。テーマにストーリーを与えていることもすごいけれど、まずもって「きちんとやること」という概念に「芝刈り」という形を与える作業に成功していることも作者のセンスを見せているよな。概念と形而下の事物を結びつけるのってなかなか技術がいると思うからさ。

土の中の彼女の小さな犬
  • 毎年シーズン・オフに訪れるホテルで、女性と知り合って彼女の犬の話をきく。彼女が小さいころ、飼っていた犬が死んじゃったので庭に埋めた。そのとき持っていた通帳も棺桶に同封した。のちに、お金がちょっと必要になったときその通帳を掘り返してみた。通帳には「匂い」が染み付きすぎて、使えなかった。そのときから彼女の右手には「匂い」がずっと残っている。
  • 子供の頃のトラウマは大人になると実際以上に強固に残り続けるって話かな? 最後に「僕」が右手を嗅いでも石鹸の匂いしかしねーぞってシーンがあるが、そこが「実際以上に強固になる」ってのを表している気がする。そうなんだよな。ガキの頃のトラウマって……たとえ今経験したって3日で忘れるだろってことでも……ずっと覚えてるもんだよねえ。

シドニーのグリーン・ストリート
  • 父親の財産のおかげで一生遊んで暮らせるような「僕」は、シドニーのグリーン・ストリートに住んで私立探偵を道楽でやっている。そこへ羊男なるきぐるみ野郎がやってきて、羊博士に耳をむしられたから取り返してくれ、という依頼がくる。電話帳をめくって羊博士の居場所を調べ上げ、説得したら耳は返してもらえた。めでたしめでたし。
  • やばいこれは全然わからない。最後の最後にこれか。



気楽に気分のよい読書タイムをエンジョイできた。この人の文章が大好きだ。


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村田沙耶香『コンビニ人間』



親愛なるルームメイトがもってたんで借りて読んだ。サマリと感想を書く。



古倉恵子ちゃんはガキんちょの頃からめっちゃ合理的な奴だった。小鳥が死んでるのを見れば鳥料理が好きな家族のために持ち帰ろうとするし、男子がケンカ中の教室で誰かが「誰か止めてっ」と叫べばようし任せろとばかりにスコップで殴り倒し「止めたよ」とキメる。親切で、合理的かつストロングな娘である。ただ周りの連中にはドン引かれ、そういう行いが社会では認められないものなんだと自覚する。なるたけ自発的に行動しないよう心がけ、妹の助言で最低限の社会的ふるまいも覚えて慎重に過ごしていた恵子ちゃんだったが、すべてがマニュアル的に活動するコンビニエンスストアという聖地を発見する。ここなら、全部マニュアルに従っているだけで、ドン引きもされないし逆に評価されるのだ。やったぜ。
そんなグレートな環境で働き続けはや18年、恵子さん36歳。またもや周囲の連中がうるさくなってきた。36歳で未婚で恋愛経験もなく、アルバイトしてるなんてどーよ? というわけである。妹から授かった切り札「いやあ、ちょっと持病があってさー大変でさー」もそろそろ効かなくなってきた。面倒なことになってきたぞ。そこで発見したのが白羽さんという35歳の男性。こいつは人々に干渉されるのに辟易してる奴だ。恵子さんはいいアイデアを思いつく。こいつと一緒に住んで結婚とかすれば、周りの連中も黙るんじゃないか? と。白羽さんも食費と寝床を出してもらうのと引き換えに恵子さんちに住むことを承諾してくれた。効果はてきめんで、「男と同棲!? よーやく恵子ちゃんもまともになったか!」とみんなが祝福してくれる。その流れにのせられて、恵子さんはコンビニバイトを辞め、企業に就職を試みることになる。結婚して、白羽さんが主夫、恵子ちゃんが稼ぐ、って感じの形になれば、もうわりと一般的だから周囲も受け入れてくれるって寸法である。
いよいよ一社目の面接日となった恵子さんだが、たまたまコンビニへ立ち寄ったとき、初めてコンビニへ属したときの思いが蘇った。全身の細胞がコンビニのために作り変えられていくような、コンビニ店員という動物として生まれ変わるような気持ちだ。白羽さんはぷんすかで、「絶対に後悔するぞ!」と忠告してくれるが、恵子さんは「一緒には行けません。私はコンビニ店員という動物なんです。」と毅然とした態度だ。そして恵子さんはコンビニへ戻っていくのだった。



スゲー読みやすかった! 緑さんの「主人公が親切で合理的で人間らしくてステキ」セレクションがまた増えてしまったぜ。他のはカミュ『異邦人』西尾維新『悲鳴伝』筒井康隆『旅のラゴス』ね。こうして並べてみると、ムルソーさんも空くんもラゴスさんも恵子さんも、ほんと好みの連中だよ。親切で合理的で人間らしくて、なにより行動力があるところがいい。ぐんぐん話を進めてくれる。人間としてデキているので、内的な問題が少なく、ゴールをサクッと定めて動き出してくれる。ストーリーテラーとして最高の役者だよ。ってこういうこと前も書いたっけか。今回のお話についても、恵子さんの最後の毅然とした態度に痺れる。俺はやりたいことをはっきり口にできる奴が大好きだ。

このお話のテーマとしてはやっぱり自分探しだろう。言い換えると生き方探し。夏目漱石『坑夫』と同じ。「いまの自分の居場所が自分にとって最適なんだが、ちょっと違う環境に身をおいてみると、もともとの居場所が最適だったことがよりいっそう際立っていいよね!」ってやつね。恵子さんは18年間聖地であるコンビニにいたから、それに慣れちゃってて、その価値にも慣れちゃってたんだろう。だからちょっと周囲の連中に突っつかれたくらいで「んー、ちょっと身の振り方変えてみようかな」ってなってしまった。だが最後にはもとの居場所の素晴らしさを認識し、めでたしめでたし、って流れだ。いやちょっと責めるような言い方をしちゃったが、こういう冒険はちょくちょくしたほうが楽しくていいと思う。冒険をたくさんした奴ほど、いまの自分と自分の居場所に自信をもっている。たくさん歩いた奴ほど、背筋が頑丈なものだ。それに恵子ちゃんが冒険しようと思った動機には少なからず妹さんや白羽さんへの親切心があるわけだろ。いい奴だよ。恵子ちゃんの周囲の連中は見習っときなさい。ほんと。

同じテーマである(だと思う)『坑夫』では、主人公のボンボンはめっちゃヘボい野郎だったので、結果として「ヤなことあったら環境かえてみ」っていう教訓話になっちゃっているけれど、『コンビニ人間』では恵子ちゃんが立派なおかげでまったく教訓話めいちゃいないな。むしろ、「うむ、せやろな」って思いを与えるお話って感じだ。こっちのほうが俺は好き。うむ、せやろな。いやーよかったよ。


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チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』



サマリと感想を書く。



ヨーロッパによる武力鎮圧前のアフリカ。ウムオフィアという村に、オコンクウォさんという村一番の屈強な戦士がいた。彼はめっちゃ強くてよく働き一代で納屋をヤム芋でいっぱいにし、子供をめったに褒めず、妻たちを力で従わせる、そして「弱さ」を憎む男の中の男だ。その男らしさの背景には、ろくでなしの父親の存在があった。オコンクウォパパがろくに働かず借金ばっかりするへたれだったので、それを反面教師にオコンクウォさんはがんばってきたのである。まあ、いまの社会ではアッという間にDVで豚箱に叩き込まれるところだが、ウムオフィアではそれが正当なことだったのである。客が来たらコーラの実を割って歓迎し、巫女さんにはときおり神様がおりてきて、双子は悪しきものだから悪霊の森へ捨ててきなさいという、そんな社会なのだ。そんな社会なので、長老たちがオコンクウォさんに「お前の子供は殺すことにする」と宣告したときも彼は素直に従った。もちろん名残はあったが、その気持ちは彼にとって「弱さ」だった。弱さを皆に見せることを恐れ彼は自分で息子を殺してのけた。それ自体はまあいいんだが、そのあたりから彼の不幸が始まったのである。
というのも、村のお偉いさんの葬式に参加してるとき、うっかり彼のもつ銃が暴発してよそんちの坊主を殺しちゃったのだ。これはウムオフィアでは女型の殺人といって、7年間この地を去ればOKっていう罪だ。永久追放でないだけマシではあるが、村での出世街道驀進中だったオコンクウォさんはこのことをひどく厭う。なんでこーなっちゃうんだよー。だが彼は屈強な男なので、逃れた親族のもとでもしっかり働きヤム芋をたくさんこしらえて過ごす。たいした男である。さてそんなことをしてるうちに、ウムオフィアには白人の影が伸びつつあった。宣教師がやってきてキリスト教を広めたのである。ウムオフィアの人たちにも独自の信仰があるのでえらい反発されるが、その信仰の中で虐げられていた人々……大地の神が言ったからっつって子供を殺された連中や、生まれから迫害されていた階級の連中はキリスト教に改宗していってしまう。やがてそうでない人々も……。オコンクウォさんがウムオフィアへ帰ったころには、もうそこはかつてのウムオフィアではなく、男たちは神々を冒涜せしキリスト教会を叩き潰してやろうって気概もない骨なしチキンになってしまっていた。白人たちは一族を固く結びつけていたものにナイフを入れ、ばらばらにしてしまったのだ。
白人たちは武力で彼らの法をウムオフィアに押し付け、人々を投獄し、釈放料を求めた。オコンクウォさんはひとりで白人に立ち向かったが、続くものは誰もいなかった。彼は、白人たちにも、ウムオフィアにも受け入れられない人間となってしまった。彼は首をつって自殺。ウムオフィアのルールで、自殺したものは一族の地に埋葬されることはできない。一族に殉じようとした男は、一族のもとに還ることもできないのだった。



俺も現代人のはしくれだから、ウムオフィアのルールはマジいかれてんなと最初は思った。けど、連中が楽しそうにコーラの実を割ってたり、ヤム芋を溜め込んだり、結婚の儀で意味不明ではあるもののなんか歴史があるっぽい儀式とかやってんのみると、なんとなく望郷的な思いになって、ウムオフィア社会がちょっと輝いてみえた。その人々が、最後白人によって「ニジェール川下流域における未開部族」という一言のもとに切って捨てられるところ、めちゃめちゃゾクッとした。「未開部族」って。このゾクッはあんまり経験なかったものなんで、今回はいい読書だったと思う。

ぶっちゃけ、かけ離れた文化ってファンタジーみたいなものだからな、今思えばあの望郷の思いはファンタジー世界に対する羨望と同種のものだったかもしらん。

この作品で表現されてるのは、欧米諸国とキリスト教がどうアフリカの人々の生活と習俗を破壊していったかの描写だろう。ただ、破壊とはいってもキリスト教の入り込む余地ってのはもともとたくさんあったんだよな。全編にわたり、ウムオフィア社会の習俗に対する人々の不満点はちょくちょく書かれていたわけだし。双子は不吉とされてるから殺せ! とかな。そういう描写は全部キリスト教侵入の伏線になっていたといえる。であれば、最後白人社会の到来によってその伏線が全部回収されたことになるわけで、それも読後のすっきり感につながっているんだろうな。

文章はとても読みやすかった。話の流れも理解しやすい。現代とは全然ちがう文化の生活を描いているだけに、まったくなじみのない風俗や単語が出まくるんだが、同量の注釈がそのページ内に付されてるんでわかりづらいことがまったくなかった。翻訳者さんは長いこと注釈を付すか否か迷ったそうだが、俺は楽しめたと言っておくぜ。
翻訳者さんによる後書きにこんなこと書いてあった。翻訳作業中、「アチェベがいま、日本語でこの小説を書いたらどんなふうになるか」、この言葉がつねに立ち返るべき原点となっていた、と。うんうん、どんな作業を行うにしてもこういう一本の柱があるのはよいことだよな。いい文章でした。


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清水義範『愛と日本語の惑乱』



知り合いが清水義範という作家さんをおすすめしてくれたんで、著作のなかからテキトーにチョイスして読んだ。サマリと感想を書く。



野田さんはちょっとしたコピーライターさんだ。本業のかたわら、テレビ局の用語委員会に参加されたり、雑誌にエッセイを掲載されたりと各方面でご活躍なさっている。ただこの野田っちだが、議論好きでわりといらつきやすい。「広告コピーが日本語を蹂躙している」という趣旨の論文にイラっときたり、本の校閲作業に抵抗したり、用語委員会で意見を否定されれば頭に血を昇らせ、手を震わせる。まあそんな人なんだけど、プライベートで女性に振られたことでストレスが頂点に達して言語多動性症候群なる奇病に罹ってしまう。愛とか恋とかそういう言葉に近づくと、喋ろうとする言葉の類語が滝のように流れ出したのちぶっ倒れてしまうのだ。けど2年くらいしたら快復して、新しい恋人もできて、どうやら気もちょっとは長くなったようであった。



楽しめた。これまでの読書感想からいって、キャラに共感をもてないと俺は本を楽しめない傾向にあると思う。だが今回はまさにその典型なのに楽しかった。日本語についてのうんちくは読んでて興味深かった。たぶんそういううんちくに興味をもてたから楽しめたのだろう。数字の含む言葉で算用数字を使うか漢字で書くかって問題は答えがでないとか。外国人の名前はちゃんとその国の言葉で放送するのに、中国の名前は日本読みで放送するとか。そういやそうだな、と思った。日本語読みから現地の発音に直そうとすれば、毛沢東がマオ・ツォートンになっちゃって、邯鄲の夢もハンダンの夢になってしまう。そんなことをしたら中国についての日本人の教養は吹っ飛んでなくなってしまうとか。そういやそうだな、と。いろいろ成程と思えて楽しかった。野田っちはキレかけてたけど。

ところで「得々と(語る)」って日本語はじめてしった。勉強になりました。


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J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』



最近どっかで、「フラニーとズーイ」っていうフレーズを目にした気がするのだ。なんかの本だったと思うんだけど……多分村上春樹の本のどれかかな? そんなわけで今週はこれを読んだ。サマリと感想を書く。



グラス家7人兄弟姉妹の末っ子フラニーは結構いい大学に行ってるお嬢さんだ。彼女は最近周囲の連中にうんざりしている。なにせいい大学行ってる連中なんてもんはみんな自己愛に侵された意識高い系ばっかりだから。でも何よりフラニー自身が女優志望で「自己愛に侵された意識高い系」であることを自覚しているから、もうとにかくうんざりで家にこもっているのだ。
見かねた母親が、フラニーの兄であるズーイに妹を元気づけるよう頼む。ズーイとしてははっきりいってマジ面倒くさいのではぐらかすんだが、よりにもよって母親はろくでもない精神科医に電話をかけようとしていたり、つーかそもそもフラニーの悩みの原因とか全然わかっちゃいない。しかも去り際に「お前たちは小さいころはもっとお互い優しく親切で、それを見ているのは大きな喜びだったのよ…」とか吐き捨てていく始末。ああ〜〜もうわかったよこんちくしょうというわけでズーイは妹の元へ向かう。なにしろズーイはフラニーの気持ちがよくわかるから、フラニーを元気づけるのにうってつけだ。彼もフラニーと同じく、幼い頃から才児扱いでちやほやされ続け、どいつもこいつもレベルが低いと考えてるような奴だからである。
兄が妹へかけた言葉はこんな感じだった。すなわち、きみにとって周囲の連中がどんなにろくでなしだったからといって、それはきみの知ったことじゃないのだ。きみが女優として考えなければならないのは自分自身にとっての完璧さだけ。それを実現するには、神のために演技をすることである。ではその神はどこにいるのか? 神は太ったおばさんの中にいるのだ。きみは太ったおばさんのために演技をする。そして太ったおばさんではない人間なんてどこにもいないんだ。
フラニーはそのとき、世界にあるなけなしの、あるいは無数の智慧が残らず一挙に彼女のものになったかのような思いになり、救われたのだった。



「太ったおばさん」てのは、グラス兄妹の長兄が作り出した概念的人間だ。かれ曰く、人は、その太ったおばさんのために礼を尽くしキチンとしなければならない。「太ったおばさん」というイメージは兄妹にとって、よくわからん混沌としたイメージだ。けれど兄妹は彼女のために礼を尽くしキチンとすることができた。それはなぜかっていうと、それが神だからだ。清も濁もない、すべての根源が神なのだということをかれらは理解していた。そしてすべての根源に神がいるのだとすれば、そこから生まれたすべての存在の中に神がいるということになる。それが「太ったおばさん理論」だ。だから尊重しようぜ! ……というより、自然と尊重できるようになる、ということだ。たぶんな。

この「太ったおばさん理論」も言ってることは、「人は石である」と同じだろう。どれも本質的には同じってこと。「人は石」においてはすべてがただの石だから、何もかも本質的な価値はないって流れになるんだけど、グラス兄妹にとってはすべてが神だから、「人はみな石である」が「人はみな神である」に替わり、すべてが尊重すべき対象になるってことだね。でもようするに全部おんなじってことだから、俺もまるで異議はないな。全部ゼロと全部イチってある意味で同じなんだって。
「全部ゼロってことはすべてを下に見るってことじゃないの?」って意見がごくまれにあるが、それはあんまり妥当じゃない。自分を含めすべてが同価値って視点は、「自然」というものをいたく意識する視点でもある。「自然」てのは、意識したら圧を感じるものだ。つーかそうして生まれたのが自然崇拝だろう。時代の流れに従い人間が自然をある程度制御できるようになり、我々にとって自然の価値が相対的に下がったことで自然崇拝は失われてったんだ。そういう目でみたらさ、「相対的に下のものがいる」ってより「全部ゼロ」のほうが余程健全だと思うね。

それはともかく、ズーイくんマッジ話なげえ。ってとこだけどこれは割と仕方ないことだ。というのもさ、ズーイがフラニーに授けたのは、世界の見方を一新する提案だ。世界の見方を一新することは普通、体験を通してしか実現できない。だから一部の思想家は自分の思想を伝えるとき、その思想を直接ずらずら並べるんじゃなく、物語を書き、読者に自身の経験を仮想的に追わせるのだ。だからズーイくんは、あの長広舌無しに、最後の部分だけ語るわけにはいかなかったんだ。ズーイくんは中盤で、フラニーの行いや未熟な思想をこてんぱんにのめす。フラニー大泣き。だけど多分、それってズーイくんも経験したことなんだよ。ずたぼろになったことがあったんだよ。それを通過させず、おいしいところだけもっていかせるようなことはできないのだ。いやできないというか、ずたぼろ経験なしに最後の部分だけ見ても心が理解できないのだ。それがズーイくんの長広舌の意味だ。ズーイくんにそのつもりがあったかどうかはわからない。が、ともかく、そうでなければならなかったのだ。

俺にもいちおう心の弟子みたいな奴がいるが、そいつに説法をするとき苦心するのがそこだ。そいつは苦しんでいる。俺はそれを乗り越えたし、乗り越える手法も自分の中でシステム化したから、伝えることはできる。だが果たして、そこだけ教えて、意味はあるのか? そういう思いがいつもよぎる。厳密にはそいつの問題と俺の抱えた問題は違っているはずだし、本当に必要なのって今を乗り越えることより、将来の類似例に対応できることじゃないのか? チャンスってなかなかめぐってこないものだが、「問題」だってある意味ではチャンスのひとつなのだ。いまそいつが抱えてる問題って割と貴重なもので、俺が横からちょっかいだして台無しにしちゃダメなんじゃないか? 俺はただ、そいつがこてんぱんにのされたとき寄る辺となるセーフティネットであるべきなんじゃないか? つーかこの気持ちって親のそれじゃないか? 俺はお前のパパやないねんで!

あと、ズーイくんたちのママ、マッジ風呂場から出ていかねえ。めちゃ笑った。ママもママで、子供の扱いについては策士よな。


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ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』



テキトーに選んで読んだ。サマリと感想を書く。



突然失明して目の前が真っ白になっちまう病気が流行りだす。状況からいってこの病気は伝染病っぽいので、国はこの病気の発病者と発病予備軍の連中の全員隔離を決める。隔離施設内は軍に見張られ、「患者はゼッテー出てくんな! 食糧は庭に置くからヨシと言ったらお前らが取りに来い! もし施設内で死人が出たら、お前らが責任をもって埋葬しろ! 施設から脱出しようとしたら撃つ!」というグッバイ基本的人権な状態である。つーか目が見えないんだから食糧取りに行くのも一苦労だし糞便はまき散らし放題だし掃除もできないし、施設はどんどん劣悪な環境になっていく。さらには銃を持ち込んだ失明者のグループが食糧を独占しだし、ほかのみんなに金品を要求し、女性を性奴隷として要求し、悪逆非道の限りを尽くしだす。それにブチ切れた女性らが非道グループの頭をブチ殺し、彼らの部屋に火を放つ。施設は全焼、焼け出された患者たちは、いつの間にか施設を見張っていた軍人がいなくなっていることに気付く。というのも、隔離の甲斐なく白い病気はパンデミックを遂げ、いまや全世界が盲人の世界と化していたのである。人々は四つん這いで街を徘徊し、空き家があればそこを根城にし、空っぽのスーパーマーケットで食糧をもとめ鼻をならしていた。そこらじゅうに人の死体が落ちている。
人間らしい生活というものがいかなる薄氷の上に成り立っていたものかみんなが実感していたが、あるとき突然その病気がちらほら快復しはじめたのだった。



白い病気って結局なんだったの?
最後にはこの病気の正体が明かされるかと思ってたんだけどまったくそんなことはなかったな! 仕方ないから、作者さんがこの小説を成り立たせるために用意した、神の装置だと思うことにする。
作者さんがこの小説で表現したかったことは?
一番最後で登場人物に「わたしたちは目が見えなくなったんじゃない。わたしたちは目が見えないのよ」と発言させていることからして、現実はこの小説内の状況とほとんど同じなんだってことが言いたいんじゃねーかな。白い病気がパンデミッたことで人々は文化的な生活や精神を崩壊させていったわけだが、実際に文化的な精神……寛容さとか誠実さとか……をもたない連中って結構いるよな。普段そういうものを持っていても、余裕がなくなるとそういうのってなくしちゃうもんじゃん? 俺も、普段はおせっかいなまでにお手伝いとかするんでルームメイトたちからめちゃめちゃ優しいと評判だが、肉体的に疲れてると「知るかバカヤロウそんなん自分でやれ」ってなっちゃうしな。俺らの文化的な態度は、ちょっと余裕がなくなっただけでも崩壊してしまう。そのことを、失明という具体的な装置に置き換えて大袈裟に表現したのがこの小説なんじゃねえ? つまり、この小説において「視力」は「余裕があること」を比喩してるってこと。余裕あるときとないときの状態をわかりやすく象徴してる一節がある。失明者のひとりAさんは失明中めっちゃ不寛容でいじいじしてんだけど、ラストでそれが快復すると途端に「安全の確保、自尊心、威厳といった、さまざまな感情」(以上引用)を獲得する。そうなんだよ。余裕ができると、一挙に優しくなるんだよ人ってのは。
登場人物のなかで唯一医者の妻が失明しない理由は?
これも作者さんの都合だろうけど。理由は、上述した「余裕なくなると」って表現を使わせてもらえば、まだ余裕ある人物をひとり用意することで、完全に余裕なくなっちゃってる連中の様子を際立たせ、同時に観測するためだ。医者の妻は劇中で失明者たちを頻繁に哀れみ悲しむ。現実にも存在する「余裕なくなっちゃってる連中」は、哀れみ悲しまれる対象なのだということが言いたいんだろう。ハイ、身につまされます。
文章がマジ読みやすい
ホントに読みやすい。分量があるんで二週間くらいかかっちゃったけれど、さくさく読めた。なんかファンタジーちっくだからワクワクするってのもあって。語り口が神の視点で、「ああそういえばあのことについても語らねばなるまい」みたいな口調なのも読みやすい理由のひとつかも。まあこれは翻訳者さんの技術でもあるだろうけど。いやあもうトニ・モリスン『ビラヴド』なんかと比べると本当に……(読みづらい小説殿堂入り)。
登場人物に名前がない理由は?
実際「みんな」が盲目みたいなもんなんだ、ってことが言いたい小説に、「個人」を識別する記号である名前は不必要だからだろう。


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筒井康隆『旅のラゴス』



先回の『ビラヴド』と比してめちゃめちゃ読みやすくて、まばたきしてる間に読み終わっちゃったぜ。サマリと感想を書く。



ラゴスさんは北方の出身だが、南方大陸にあるという宇宙船の遺跡を目当てにしている旅人だ。だが世の中物騒なのでひとり旅は心許ない。というわけでいろんな人たちと一緒に旅をすることにしている。
牧畜民族の移動に加わり、その最中に彼らの集団転移(テレポみたいなもん)を手助けしてみなに好かれる。顔を変化させることができる旅の似顔絵描きと道連れになる。壁抜けのできる男に出会って、その超能力に感心する。大蛇のいる街に滞在する。立ち寄った街で奴隷狩りに遭ってしまい、銀鉱に閉じ込められるが学才のおかげで鉱山の首領に気に入られ10年を過ごす。その間に随分と信用されたので、ようやく鉱山を脱出し、船で南方大陸へと渡る。ようやっと宇宙船の遺跡へ到着したラゴスさん。どうやらこの宇宙船でこの星へやってきたラゴスさんたちの先祖たちはとってもすぐれた科学力を持っていたが、この星ではその科学力を活かせる地盤がなかったためその技術を失い、そのかわりに今ラゴスさんたちがもっているテレポだの超能力だのが開花したという流れらしい。そして彼らの技術や歴史は書物としてそこの村に残っているそうだ。ラゴスさんは書物を読みふける。得た知識を現地の人たちに流しているうちに村は王国へと発展し、ラゴスさんは王として扱われるようになる。流すとは言っても、科学技術が人々の生活感情遊離した社会は破滅への道をたどることは理解していたので、適度な流し方を心がけるラゴスさんである。あっという間に十五年も経ち、彼は故郷へ戻ることにする。帰ってる最中に奴隷商人にとっ捕まる。ただしマヌケな商人は、ラゴスさんの故郷である北方で彼を売ろうとしたため、ラゴスさんの親類の激怒をかい吊るされることとなり、ラゴスさんは帰郷を果たす。得た知識をはたまた故郷で適度に流布させるラゴスさん。ここでも尊ばれ敬われるが、もう彼は悟っていた。自分は故郷へ帰郷したのではなく、人生という旅の間にちょっと寄ったに過ぎなかったのだと。彼は人も棲まぬ極北の地へと旅立っていくのだった。



とまあ、とっても好青年の穏やかなラゴスさんが、ゆく先々で理性的な振る舞いをし、女性たちにモッテモテとなる旅路を眺めるお話だった。さらに踏み込んでみると、そのラゴスさんの旅を通してこのファンタジックな世界を描くのがこの物語の芯だと思っていいんじゃないかな。ラゴスさんはマジでまったく人間性にも振る舞いにも問題がない。人生を通して悩まされる問題もない。それゆえ、主人公の問題にいちいち読者は煩わされず、純粋に彼のいる世界を鑑賞できる構成ってわけだ。加えて言うなら彼の出会う連中も基本的に善良で、たまにワルい奴もいるけどラゴスさん(と読者たる俺ら)にとって極めて一過性の登場人物で、まるで煩わされない。ていうか善良な連中も一過性。人間関係がまったく残らない。気持ちいい。世界の鑑賞に集中できる。カミュの『異邦人』しかり、西尾維新の『悲鳴伝』しかり、やっぱ俺はつねに理性的で人間らしい奴が主人公の話が好きなんだろう。


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トニ・モリスン『ビラヴド』



先回の感想文からまる三週間あいちまったが、それもこれもこの話がメチャ読みづらかったせいだ。サマリと感想を書く。



シンシナティなる街の124番地にはセサという元奴隷の黒人女性が住んでいるんだが、その家、赤ん坊の騒霊に憑りつかれていており日々すったもんだの大騒ぎで、街のみんなから距離をおかれていた。そこへ元奴隷の同僚であったポールDさんがやってきて、幽霊を気合で追い出し、セサとの生活を始めようとする。セサさんもその生活をあしからず思っており、順風満帆な生活になるかと思われた。
が、そこへやってきたのがビラヴドなる女の子だ。超不気味な子なのだがセサさんも、セサの娘であるデンヴァーも、なぜかビラヴドを溺愛してしまう。なんなんこの子……と訝しむポールDさんだったが、街の人からセサの過去を聞かされて得心がいく。彼女は昔みずからの赤ん坊の首を切って殺しており、もともと家に憑いていた例はその赤子の霊だったのだ。そしてその赤子の墓石にセサが刻んだ言葉がビラヴド。やってきた女の子ビラヴドは幽霊だったんである。セサが子を殺したのは、そのとき逃亡奴隷である彼女を追ってきた白人に、子が連れていかれ奴隷になるより、死んだほうがマシだとの判断であり、そのことをセサは罪と思っていなかった。
セサさんの子殺しに引いたポールDさんは124番地を出ていってしまう。そしてセサとデンヴァー、ビラヴドの荒廃した生活が続いていく。ビラヴドは不平を言い、セサはなんでも叶えてやる。ビラヴドはどんどん肥えていき、セサはやつれていった。デンヴァーはそんなふたりに仕えたが、やがてそれではいかんと街の人に助けを求めるようになる。街の人は「えー、あのセサの娘か…」という感じなんだけど、この子はちゃんと外に助けを求めることができるし、ありがとうも言えるし、というわけで助けてくれるようになる。デンヴァーちゃんは黒人にも優しめの白人さんに雇われることになり、白人さんは124番地までデンヴァーを迎えに来る。しかし白人がやってくるというイメージはセサに、かつてセサを追ってきた白人を想起させ、彼女は白人を殺しにかかる。だが昔のような悲劇は起こらなかった。デンヴァーが、そして街の人々がそれを止めたのである。そしてことが済むと、ビラヴドはいずこかへ雲散霧消してしまっていた。



みたいな話だったのだけどもうメッチャメチャ読みづらかった。不理解を人のせいにするのはよくないけれど、言葉の使い方おかしくね? って箇所がいくつもあった。がんばって辻褄あわせてみればみたで内容は沈鬱な話だし、くたびれる読書だったぜ。

ほんで主旨としては、奴隷制によって黒人たちに刻まれた傷の深さの表現かな多分。小さなころからずーっと奴隷で、レイプされ、鞭打たれた女性はこんな風になっちまうんだぞーっていう。ただしそれを作り出した白人を責めるような内容ではないだろう。あくまでも白人たちは黒人イコール奴隷、という図式を常識として受け入れているだけだと幾度も描写があったからな。


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伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』



これも床屋のおねーさんに薦められたので読んだ。サマリと感想を書く。



新首相がパレード中、爆弾を積んだラジコンヘリによって爆殺されてしまう。容疑者として上げられたのは青柳さんという好青年だ。彼は過去花火工場で働いてたことがあり、現場近くの定食屋でご飯食べてる姿も目撃されてるし、ラジコンを買っている姿も確認されており、痴漢をはたらいた容疑もある。見かけは好青年だけど、ヤーバイ人なんだねえとTVの前の人々は思った。
一方青柳さんは、唐突な容疑に戸惑っていた。いや花火工場で働いたけど工場長は自分らに絶対火薬に近づけなかったし、定食屋には行ったことないし、ラジコンは自分で買ったことないし、痴漢も冤罪だったよ! というわけだ。そう、彼は首相殺害の犯人として、国家とか警察とか、巨大な力によって仕立てあげられようとしていたのである。普通ではありえないほど暴力的な警察が大勢追ってくるし、おとなしく認めれば罪を軽くするよう補助してやると唆され、青柳さんはもう諦めちゃおうかと思う。が、昔からの友人たちはTVで報道される情報が明らかに自分たちの知っている青柳くんとは違うと確信し、彼の逃亡を影に日向に助けてやる。さらに逃亡中、殺人鬼や闇医者、元犯罪者たちも青柳さんを助けてくれる。彼らの助けを受け、青柳さんはからくも逃げ切り、顔を変えこれまでの生活を捨て、生き延びることになったのである。



先回感想文書いた『魔王』はそこそこだったけど、今回は結構好きだったな。『魔王』でも『ゴールデンスランバー』でも、登場人物たちのキャラ付けが過去を頻繁に挿入することで行われている。それって『魔王』のときは結構うっとうしかったのだよな。「……と彼はよく言ったものだった」が特に鬱陶しかった。けれど『ゴールデンスランバー』では散りばめられた過去がキャラ付けにとどまらず話の伏線になってて、最後にはざーっと回収されるのが快かった。七美ちゃんがスタンプ押してくれたところはぞわぞわっときちゃったぜ。ひえー。

しかし警察とマスコミにうんざりさせられる話だ。そのぶん青柳くんのお父さんのカッコよさが際立ってたなあ。「覚悟を持てよ」! 青柳くんを助けてあげた周囲の人たちの青柳くんへの信頼も見てて心地よかった。「たいへんよくできました」!!


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伊坂幸太郎『魔王』



床屋のおねーさんに薦められたので読んだ。サマリと感想を書く。



不景気で、他国にも毅然たる態度をとれずヘイコラしてばかりの日本。海外と政治家への反感はつのる一方だったが、期待の新星犬養さんが現れる。39歳という若さで、自信に溢れ、明確なスピーチをする、そして鋭い視線。彼のカリスマにやられちまった人々は熱狂し、それは大きなうねりとなっていた。
そんな流れに懸念を抱くサラリーマンの安藤くんがいた。彼はそういう、自分の頭で考えることなしに雰囲気にあてられ流行に飲み込まれる人々の姿とファシズムを重ねあわせ不安を抱く。現に犬養の発言が生み出した反アメリカ感情でマックが燃やされケンタッキーが焼かれ、安藤くんの友達のアメリカ人も家を焼かれてしまった。安藤くんの友達は、考え過ぎだよ世の中のみんなが引きずられるわけないじゃんというが、気付けばそいつ自身が犬養のファンになっていた。そんななか、安藤くんは流されることなく「でたらめでもいいから自分の考えを信じて対決していけば世界が変わる」と考えひとりで犬養に対決していく。具体的には、安藤くんはなんか、自分が念じた言葉を人に言わせることができる超能力をもっているので、それを利用して犬養の失脚を目指す。ただし安藤くんはその最中、超能力の副作用なのか、他の超能力者の攻撃なのか、脳溢血で死んでしまう。
兄の死の直後、安藤くんの弟潤也くんもまた超能力に目覚める。1/10までのくじならアタリを引けるという能力だ。彼はお兄ちゃんほど政治問題へ熱心なわけではないが、彼もまた、流されることなく自分の信じるものを信じ続けることのできる人間だった。「洪水が起きたとき水に流されないで立ち尽くす一本の木になりたい」人間だった。自分ひとりでも世界を変える、と彼は超能力でお金を貯めまくることにする。



孤高な人間の話だった。安藤くんみたいな人って孤高に見えるけど、別に「孤高になりたい」って思ってるわけじゃないんだよね。孤高っていうのは結果であって、結果は行動のあとにあるもんだ。別に「孤高でありたいなんて言ってる人は孤高になれませんよープププ」って言いたいわけじゃなくて、孤高になるなら「孤高」を目指すんじゃなくて「孤高であるための行動」を目指したほうが近道だと思うよってこと。それでその行動を示してくれたのが安藤くん兄弟だった。まあでも兄弟だけが犬養さんの大きな流れの中で立ち尽くす一本の木であったわけでもないよな、この小説では。犬養さんは何度か襲われてるし、実際安藤の兄ちゃんがやろうとしてたのもそれと同じだし。ふつーに拳銃とかで襲った人も実は安藤くんレベルに考察したうえでの行動だったかもしれないし、安藤兄ちゃんだって超能力がなければナイフを使ったかもしれないし。

しかし犬養さんがいかすよなあ。煽るだけの煽動者では全然ない。もちろん最初はファンを増やすために煽動者チックなことをするんだけど、一定の地盤を確保したあとはきちんと、「私を信じるな。私はこの道を信じるし歩むが、きみらは自分の頭で考え、その結果信じられないと思えば別の道をゆけばよい」みたいなこと言うし。それって俺が思うに教育の場でも完璧なやりかたで、最初はちょっと内容が間違っていようとわかり易さを優先すべきなんだよ。そしてそのあとで、ずれてる部分を是正していけばいい。安藤くんは一番最初の煽動者チックな部分をみて「これはやばいぞ」と思ったわけだよな。

もちろん「犬養さんは間違ってなかった。安藤くんざまあ」っていうんじゃなくて、そのときどきで、自分の考えに従って動くということ自体がこの話の核なんだと思う。ていうか犬養さんも安藤くんみたいなタイプが一番好きだと思う。



ところでこの小説に限らずいろんな場面で「自分の頭で考えて行動する」ってのは出てくるけどさ。自分の頭で考えてない奴なんていないと思うよ俺は。流行に乗る人も、「みんながやってることに乗ったほうが私がキモチイイ」って思って乗ってるわけだろ? あるいは「仲間はずれにされるのは得策ではない」とか思ってるわけだろ。その流行に乗ることで何が起こるのか、その流行がどう起こされたものなのか、みたいなところまで述べられないと自分の頭で考えたことにならないってのはちょっと厳しすぎると思うね。彼らは自分の頭で考えてないんじゃなくて、そこまでは考えないだけだ。だからといって考えてる奴より考えてない奴のほうが頭が悪いってことにもならない。人はそれぞれ、目指すところが違うんだ。「考えることが必要なもの」を目指してる奴は考えるし、「考えることが必要ではないもの」を目指してる奴は考えない。それだけのことだと思う。


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