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緑色さんの多目的ブログ
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村上春樹『雑文集』



雑誌やら、CDのライナーノートやら。これまで単行本にならなかった村上春樹の文章がセレクトされてまとめられた本だった。こういうのは読むのに時間がかかる。ひとつの話を読み終えるたびに、頭の中のオフ・オンを切り替えなくちゃならないから。だけれどまあ村上春樹の文章なので楽しめたぜ。心が整頓されました。気に入ったところをいくつか抜き出して感想とする。



村上春樹は文章のなかでたびたび、小説家の定義について語る。
  • 「小説家とは多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」
  • 「最終的な判断を下すのは常に読者」
  • 「小説家がその権利を読者に委ねることなく、自分であれこれものごとの判断を下し始めると、小説はまずつまらなくなる」
  • 「良き物語を作るために小説家がなすべきことは、(中略)仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ」
おお、なるほど! って感じだ。実際にかれの小説を読んだあとのふわふわ感はそこから来ているのかと納得した。同時に、どこかで村上春樹の文章を批判する意見を目にしたときのことを思い出した。そこにはこういうことが書かれていた。
  • 「うまいのは認めるけど、文学ってこういうものだろうか」
当時は何いってんのかよくわからなかったけど、その批評家が言いたかったのはこういうことじゃなかろうか? つまりさ、仮説だけを積み重ねた物語は、読者に想像の余地をものすごい残すから、深みがあるように感じられるんだよな。ただ書いてないだけなのに、読者は勝手に、そこになにかあるんじゃないかって思い込む。ただ答えを出すのをサボってるだけなのに、それを深みと誤認させて評価を上げるなんてのは、詐欺みたいなもんだってことなんじゃないかなかれが言いたかったのは。
その論理自体には誤りはないように思える。そしてその技術が読者を楽しませているというのは確かだ。で、その批評家が言いたいのは、それは果たして文学なのかってことだったな。その疑問、もう村上春樹の文章どうこうじゃなくて、その疑問を発した人の中の「文学」って言葉の定義の問題になっちゃってる。「村上春樹の文章って文学なんだろうか」じゃあなくて、「村上春樹の文章って僕の中の文学の定義に沿っているだろうか」になっちゃってる。だから俺が考える意味はゼロだろう。その人にしかわからない。

村上春樹が「ジャズってどういう音楽ですか?」と訊かれたときの答えが面白い。
  • 「そんなことは経験がすべてだよ。説明したってわかるものじゃない。何でもいいからジャズのCDを十枚くらいじっくりと聴いて、それからもう一回出直してきなさい」(中略)そう言えちゃうと楽なのだろうけれど(中略)話がデッドエンドになって、そこでぷつんと終わってしまうことになる。そしてそれは文筆家の仕事として、正しいあり方ではない。ジャズとはどういう音楽か? ビリー・ホリデイの話をしよう。
笑った。そしてこのあと、かれが国分寺でジャズバーを営んでいたころ、ビリー・ホリデイのレコードをかけてもらうのが好きだった物静かな黒人と、その連れの女性の魅力的なお話がはじまる。そして「こういうことがつまりジャズなんだよ」で締められる。まず、さんざん小説家は仮説を積み上げるだけの人間だと宣言しているにもかかわらず、小説家、文筆家という存在についてはかたくなな主義をもっている部分に笑う。格好いい。次に、ジャズバー時代の思い出話が普通にとても素敵で笑う。さっき仮説を積み上げたお話が深くていい話になる、みたいな話をしてたけれど、実体験であってもこんなに素敵に仕上がっちゃうのがすごいよ。

ところで、俺も普段からわりと文章を書いていることだし、文章を書くのは好きだ。これだけブログが続いてんだから、文章を書く体力もある。だけど俺がこれまで小説を書けたことは数回しかないんだよなー。具体的に言うと短いのがふたつと、100ページ級がひとつだけ。挑戦自体はしてるのだけど。でも村上春樹による小説家の素養をみると、うなずけちゃうところだ。
  • 「自分の考えていることを流暢に話せるような人は、わざわざ苦労して小説を書いたりしない」
だけど小説を書くのは楽しめるので、これからも挑戦してみるぜ。

スティーヴン・キングについて書かれた文章に、ホラー・ストーリーにおいていちばん大事な要素が書いてあった。その定義はとてもうなずけた。
  • 「uneasy(不安)でありながらuncomfortable(不快)ではないというのが良質の怪奇小説の条件である」
メチャうなずける。ふと思い浮かんだのだけど、先日プレイして感想を書いたフリーゲーム「END ROLL」があったけれど、その感想で俺は「矢継ぎ早に悪化していく夢世界に気持ちよく振り回された」と書いた。あの記事じゃなぜそれが「気持ちよい」のかの考察として、「状況変化がめまぐるしいから、素早く動くものには目を引かれてしまう理論で世界観に目を引かれちゃったんだろう」としている。悪化していく夢世界はuneasyではあるが、そのテンポのよさがuncomfortableを打ち消していた、よって気持ちよかった、と考えればすっきりするね。

スコット・フィッツジェラルドについて書かれた文章に、かれの生涯の波乱万丈さが書いてあった。フィッツジェラルドは輝かしい時代の寵児として文壇に上がるも、時代の変化で一気に落ちぶれてしまった。そして失意のうちに酒に溺れるようになった。
  • 「しかし作家フィッツジェラルドの素晴らしい点は、現実の人生にどれだけ過酷に打ちのめされても、文章に対する信頼感をほとんど失わなかったことにある。(中略)死の間際まで、しがみつくように小説を書き続けた。『この小説が完成すれば……(中略)すべては回復される』。」
フィッツジェラルドが落ちぶれるのと入れ替わるように文壇に上がったのがヘミングウェイらしい。ヘミングウェイはフィッツジェラルドと対照的に、文章による救済の可能性を信じられずに自害したそうだ。

うまく説明できないんだけど、以下の文章がすとんと俺の中に落ちた。
  • 「自己に対するパーソナルなコミットメントを、普遍のコミットメントへと敷衍していくこと、それこそが『告白』の純粋な意味」

また、小説についての文章。
  • 「音楽にせよ小説にせよ、いちばん基礎にあるものはリズムだ。自然で心地よい、そして確実なリズムがそこになければ、人は文章を読み進んではくれないだろう」
長距離ランナーのいうことは体幹がしっかりしているなあ。
  • 「もちろん現実の地球は球形だから、どこまでいっても『果て』はないわけですが、僕が考えているのはもっと神話的な世界のことです。(中略)そういう世界にはちゃんと『端っこ』があるわけです。そしてそこには『ここが世界の端っこです』と書かれた立て札が立っているかもしれない。あなたはそういう場所に行ってみたいと思いませんか? 僕は思います。だからこそ僕は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という小説を書いたわけです。つまりあなたが小説家であって、本当にどこかに行きたいと思えば、あなたは実際にそこに行くことができるわけです。
すごく夢の広がる文章だね。この文章自体にも、ひとつのリズムが通っているような気がする。



こういう本は読むのに時間がかかるし、感想も長くなる……。ひとつのテーマに絞って書くことができないから。けど楽しめたよ。しかし村上春樹の、文章や小説家に対するこだわりは尋常じゃねーな。上には挙げなかったけれど、メディアへの露出の多い文筆家を冷笑するようなことも各所で言っているし。「小説家というのは本来、あらゆる個人的行為や原則を、小説の中に詰め込んでいくべき」とか。


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西尾維新『掟上今日子の婚姻届』



今日は閉じこもって、軽い本読もうー思って『掟上今日子の家計簿』『掟上今日子の退職願』そして『掟上の婚姻届』を読んだ。その順番で読んだのだけど、最後のがいっとう楽しめた。だから今回の表題はこれで。サマリと感想を書く。



冤罪体質の隠館厄介くんは、その体質をかわれ素敵なジャーナリスト囲井さんにインタビューを受けることとなった。インタビュー自体はつつがなく終了したが、囲井さんはその場で彼にプロポーズしてきた。は? って感じだが、事情があるようだ。彼女はこれまで付き合った男性が全員破滅しているという、脅威の呪い体質だったのだ。だから次なる恋に踏み切れず迷っていたのだが……厄介くんはあらゆる破滅を経験しつつもそのたびに回避してきた経歴の持ち主だ。であれば彼なら、彼女の呪いを物ともしないのでは? だから、「わたしあなたとしか幸せになれないと思うんです」とのこと。
でも厄介くんにその気はなかった。そこで彼は探偵の掟上今日子さんに依頼した。囲井さんのこれまでの男たちが本当に彼女のせいで破滅したのか? てか破滅自体気のせいなんじゃね? っていうのを詳らかにするつもりだ。呪いが解き明かされた暁には、プロポーズを断るつもりだ。誤解をもとにして発生したプロポーズなんて受けるわけにはいかないから。
掟上探偵は優秀なのであっという間に呪いは否定されたがプロポーズを断った厄介くんに囲井さんはガチギレした。そのガチギレがあまりに不自然だったので、掟上探偵はもっと踏み込んで推理してくれた。明らかになったのは、囲井さんの「呪い体質」は彼女自身の意図的でっち上げだってことだった。「破滅」した男のうち一件だけ、囲井さんが明確に原因になっているものがあったのだ。彼女はそれを忘れるため、多数の男たちを呪いで破滅したことにし、核となる一件をその多数の事例に紛れさせたのだ。
すべては解き明かされ、めでたしとなった。



掟上さんシリーズは全部、彼女を主人公としたロードムービーだ。でも俺はこれがベストで気に入ったぜ。厄介くんが素敵なんだよねー。ギャグ担当である掟上さんへの、台詞地の文問わぬツッコミが小気味良い。これを読んだら他のロードムービーに戻れねーよ。厄介くんだ、厄介くんを出せ。

最後の「僕はぜんぜん、びっくりするくらい気にしませんよ」がお話の締めとして格好よすぎる。今回の事件の内容を踏襲しつつ、囲井さんのこの後のやけっぱち行動を抑止する台詞だが、厄介くんの優しさ、ちょっと抜けてる性格が現れてる。ていうかこのキャラ、俺の大好きな『緑セレクション』に入れる性格じゃねーか。理性的で、人間的に完成してて、優しくて、人間らしい。掟上さんや囲井さんのイマイチっぷりとの対比でそれが際立ってる。ただなあ、お話全体として、彼が何かを能動的にするってことがあんまりないから、本の単位ではセレクトできないかな。


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村上春樹『女のいない男たち』



親愛なるルームメイトが貸してくれたので読んだ。貸りたとき、緑さんは言った。「なんだ。これって短編なの? 短編苦手なんだよねー、感想文を書くとき困るから。全部のお話のサマリを書こうとすればすげえ分量になっちゃうし。しかも目次を見たところ、表題を冠した短編が含まれてるタイプじゃん。苦手苦手。本の題名を冠した短編があると、それがメインで、他のはオマケみたいに思えてきちゃうからさー。」……いや、人から借りたものにどんだけ文句を言うのだという話だ。けれど、まえがきを読んだら一気にひっくり返されて笑った。

  • 本書のモチーフはタイトルどおり「女のいない男たち」だ。(中略)この言葉をひとつの柱として、その柱を囲むようなかたちで、一連の短編小説を書いてみたいという気持ちになっていた。
  • 最後に雑誌のためではなく、単行本のための「書き下ろし」というかたちで短編『女のいない男たち』を書いた。考えてみれば、この本のタイトルに対応する「表題作」がなかったからだ。そういう、いわば象徴的な意味合いを持つ作品がひとつ最後にあった方が、かたちとして落ち着きがいい。ちょうどコース料理のしめのような感じで。

俺のアホな文句が全部潰された。この短編集は決して寄せ集めじゃなくて、テーマの定まったコース料理だったのだ。そういうことならば短編集っていうかひとつの作品だと思って鑑賞していいだろう。というわけで今回は簡単なサマリと、このコース料理で提示されている「女のいない男たち」ってのはどういうもんなのかなーってことを考えてみる。



『ドライブ・マイ・カー』の家福さんは、奥さんと死別した。奥さんは赤ちゃんを流産して(三日目まで生きたから流産ではないのかな?)、浮気を始めて、病死した。家福さんは奥さんがどうして浮気をしていたのか、ずっとわからなかったのがしこりになっていた。
『イエスタディ』の木樽くんは、ずっと一緒にいた幼馴染と離別した。ふたりはとても深く仲良しで、心のどこかに相手だけの場所をもっていたが、お互いに「この相手以外の世界も見てみたい」という、回り道の希望ももっていた。幼馴染のほうがその好奇心で他の人とセックスをしたのをきっかけに、ふたりは離れ離れになった。
『独立器官』の渡会さんは、深く想いを寄せていた女性に手酷くフラれて餓死を選んだ。相手の女性は既婚で、渡会さんとは浮気だった。彼女は最後に渡会さんでもなく旦那さんでもなく、ろくでなしの男とくっついた。渡会さんは都合よく利用されただけだった。
『シェエラザード』の羽原さんは、まだ女を失ってはいない。だけどこの関係は誰かに気まぐれに与えられたものであり、それが誰かの気まぐれで不意に失われてしまうことを理解している。
『木野』の木野さんは、奥さんの浮気が原因で離婚した。浮気について怒りは湧いてこなかった。赦しもした。だがあとになって、自分がとても深く傷ついていることに気付く。



『シェエラザード』からの引用になっちゃうのだけど、結局、このモチーフは以下のようなことを表しているんじゃないかなあ。

  • 女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。(中略)それをいつか失わなくてはならないであろうことが、彼をおそらくは他の何よりも、哀しい気持ちにさせた。

ストーリーの中で女を失った男たちは「特殊な時間」を失ったことで現実に直面することになる。のだけど、これまで現実が無効化される時間に慣れていたせいでうまく現実と向き合えないんじゃないかな? そのせいでずっとしこりが残った生活をすることになっちゃったり、餓死したり、傷ついた自分の心に無自覚になっちゃったりしたのだ。

うーん、こんなところかな。このテーマ、共感できなくてよくわからない。先日の『武器よさらば』で書いた感想と少し通じるところはある。あの感想文では、「小さく完結した世界は強い」「ぼくがいて、きみがいる、それだけで完結した世界は強い」「ただしどちらかがいなくなると壊れる」「世界の完結性の責任の属する先が増えれば増えるほど、世界は脆くなる」みたいなことを書いた。このテーマについて思うこともそれと同じ。こういった脆さを回避するための方法として提案できるのは、ひとりひとりが完結した世界をもち、他者とは国交的な付き合いをもつことだ。ぼくの王国と、きみの王国をもつことだ。

ちと話がそれるが、「私も特別になりたい」と言う女の子と昔あったことがある。彼女はオリジナリティみたいなものを求めていた。誰もが心に抱くことだと思うけれど、それをはっきり口に出す奴が珍しくて、力になりたいと思った。自分の望みをはっきり口に出す奴には手厚くしたくなる。結局彼女は求めていたものにはなれなかったと思う。彼女は大きな世界に属していた。小さな世界で完結していない奴は、何かよくないことがあったとき人のせいにする(ことができる)。人のせいにする奴は、人のおかげじゃないと幸せになれない。自分の芯が他人に拠っているということは、独立性がないってことで、オリジナリティがないってことだ。俺は思うのだけど、オリジナリティが欲しいなら、いろいろなものを足していくんじゃなくて、いろいろなものを捨てていくべきだ。

本の話に戻る。文章はやっぱり村上春樹で、整頓されて清潔な文章。大好きだ。とくに『ドライブ・マイ・カー』と『木野』が気に入った。『ドライブ・マイ・カー』については、おじさまと女の子がずっと会話してるだけの情景を、なぜこんなにスマートに書けるんだ? って感じ。ああ〜、心の中の本棚が整頓されていくぜ〜。ジャンルごとにあいうえお順に並べられていく〜。『木野』についてはもうとってもグッドだぜ。村上春樹長編と通じるところのある短編だった。つまり、なんかすごい力をもった立ち居振る舞いスマートな人が出てきたり、象徴的な動物がわらわら出てきたり、大事な台詞が話の中でなんべんも回想されたり、暴力的なシーンや性的なシーンがすごく清潔に描写されてむしろ気分よくなったり、っていういつものアレ。
クソッ、やっぱりこの人の作品はいいなあ。


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アーネスト・ヘミングウェイ『武器よさらば』



古典だから身構えちゃったけれど、めちゃめちゃ読みやすい文章だったぜ。文章さえ読みやすければ、どんだけむつかしい内容を扱ってもらっても構わない。はは。サマリと感想を書く。



第一部
イタリア軍に従軍してるアメリカ人のヘンリー中尉が語り手。前線で負傷兵を運び、同僚たちとは仲良くて、親友もいて、女の子を買ったりして、たまに休暇をとって暮らしていた。親友リナルディの紹介で救急看護奉仕隊のキャサリン・バークリーに出会う。若干クレイジーの気があったが毎夜女の子を買うよりまともな生活だと判断し、遊びの恋をはじめる。とかやってたらヘンリーは迫撃砲にふっとばされて負傷、前線を退きミラノの病院へ入る。

第二部
病院にはキャサリンもちょうどよいタイミングで転属になった。ふたりはヘンリーの療養期間の間に仲をめっぽう深めた。今ではお互いにすっかり参ってしまった。キャサリンの夜勤のたび情事を重ねた。レストランにいき、競馬場へ行き、夏を楽しんだ。怪我が治ると、ヘンリーは前線に戻ることになった。キャサリンは妊娠した。

第三部
前線に戻ると長引く戦いにみんな疲れていた。軽いノリのリナルディもへとへとみたいだ。退却が決まり、軍の指揮系統は乱れ、疑心暗鬼で味方から撃たれたりする。そんななかヘンリーは野戦憲兵にドイツのスパイと誤解されて殺されそうに。とっさの機転で川に飛び込み、彼は脱走兵となる。単独講和。

第四部
ヘンリーはキャサリンと再会。もし軍に見つかればヘンリーは銃殺されてしまう。だがこのふたりは底抜けのポジティブシンキング、ボートでスイスに逃げおおせることにする。イタリア人なら危ういが、ふたりはアメリカ人とイギリス人だから大丈夫だ。

第五部
スイスでゆっくり過ごすふたりだが、やがてキャサリンのお産のときがやってくる。順調には行かず、難産を極めた末にキャサリンは亡くなり、死産になってしまう。



解説とか見ると、人生の不条理とか書かれていたけれど、このお話からそういう解釈を見出すのってよくわからない。すごく妥当な話の進み方をしているもの。こうなって、こうなった、って感じだ。ふ、不条理? 不条理ってなんだ? 世界は妥当な進み方しかしない。このお話の楽しめるところは、ヘンリーとキャサリンの息の合ったポジティブライフだ。
ふたりが仲睦まじく暮らしているさまは見ていて気分が良かった。何が良いって、このふたりの行く先を危ぶませるような出来事は多々起こるが、ふたりの間に悲壮感がまるで生まれないところだよな。それはなぜかと言えば、ふたりの間で完璧な世界を築いているからだと思う。ぼくがいて、きみがいる。それで完結している。小さく完結していることは強さだ。人のせいにしないからだ。人のせいにする奴は、人のおかげじゃないと幸せになれない。人のせいにしない奴は強い。唯一の弱点は、その世界が壊れることだ。ヘンリーとキャサリンの世界は、キャサリンの死で壊れてしまった。それは当然あり得たことだ。世界の完結性の責任の属する先が増えれば増えるほど、世界は壊れやすくなる。ふたりの世界はひとりの世界より壊れやすい。

ヘンリーがキャサリンに恋に落ちるところの描写はなかなかよかったな。
  • 「しばらくね、ダーリン」彼女は潑剌としていて、とても美しかった。こんなに美しい女は見たことがないと思った。(中略)キャサリンを見た瞬間、ぼくは恋に落ちていた。自分の中のすべてがひっくり返っていた。
でも、なんで恋に落ちたのかがわかりづらい。推測にすぎないけど、負傷して弱っているとき、懇ろな女性を久しぶりに見たから、相対的にすげー魅力的に見えたってことかな。

『武器よさらば』っていうタイトルを冠している以上、このお話は戦争に関する主張をメタフォライズするのが作者の意図したところなんだろうとは思う。けれどそこらへんに関する感想はぜんぜん湧かなかった。ふたりの仲睦まじい様子が素敵だった。スイスへの旅路あたりがグッド。好きな人となら、どこへだって行ける。不肖俺もその気持ちは知ってるから、とても共感できた。


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南木佳士『ダイヤモンドダスト』



引越しのゴタで読書を滞らせてたんだけど、ようやっと図書館にいけたぜ。サマリと感想を書く。本書は短編集だから色々あるのだけど、メインの『ダイヤモンドダスト』に焦点を絞っとく。



のどかな別荘地の病院で働く看護士の和夫くん。成績優秀な子どもで一度はお医者さんを志すものの、母親が肝炎で死に、親父さんは沢でコケて頭の骨折って半身不随になった。親父さんを放って医学部に進出することができず、彼は近くの看護学校を出て看護士になった。納得はしているけれど、都市で立派に知的な中流階級の家庭を築いている医者を見ると、羨望を感じた。和夫くんにも妻はいたが、肺腫瘍で死んだ。もう長いこと、親父さんと小学生の息子との生活だ。三十代だけどすっかり老けて、四十代で通じる顔つきになってしまっている。
とうとう親父さんが病院に入ってしまった。息子の送り迎えとか食事の準備とかちょっとタイヘンだが、たまたまカリフォルニアから帰ってきていた幼馴染の悦子さんがそれを手伝ってくれた。久々に会った悦子さんは素敵だが、和夫くんは口説くことかなわない。
親父さんの病室にはマイクさんという腫瘍持ちの宣教師がいた。ふたりは意気投合していたが、マイクの容態悪化に伴い親父さんのほうは退院となった。退院した親父さんは庭に水車を作りはじめた。和夫くんは「なんで水車!?」みたいな感じだったがある日マイクがその理由を話してくれた。昔親父さんが運転手をしていた鉄道が廃止の憂き目にあいかけたとき、客を呼ぶため森の駅々に水車を作ろうと提案したそうだ。それはかなわなかったが、マイクは彼の運転する電車にのって、水車を眺めてみたかったというのだ。親父さんは末期癌のマイクさんに見せるため、水車を作ろうとしていたのである。和夫くんも息子くんも悦子さんもそんな水車づくりを手伝った。けれど水車ができる前にマイクさんは亡くなってしまった。水車はまわったが、素人のつくったものだし、すぐにきしむようになった。ある朝に水車はへし折れた。そのそばで親父さんは亡くなっていた。
悦子さんはその少し前にカリフォルニアに戻っていった。和夫くんはしょぼくれた引き止め言葉をかけたが、悦子さんはきっぱり首を振った。



確かに俺好みの「成長済物語」には該当するのだろうけど、主人公に魅力を感じない。

この物語はいったい何を言わんとしているのだろう…。人の死を前にして冷たくなりつつもどこかダイヤモンドダストのように輝くカタルシスを感じる心を描いているのだろうか? 確かに、生き物の死というか、何かを永遠に失う瞬間っていうのは、自分の心が冷えて、けれど同時に「これでよかったんだ」と胸がすく思いがするよな。くせになる気分であるとも思う。そのえもいわれぬ気分を文章に落とし込みたかったのだとすれば、それは俺も理解できるぜ。モヤッとフワッとする気持ちをうまいこと文章にできたときの感動はそれこそ筆舌に尽くしがたいものね。

俺はそういう気分が結構好きだけれど、きっとこの作者さんはそうではないのかな。人の死とかに相対するたびに、たしかに輝きを感じるものの、それでテンションは上がらずただただ自分が年老いて元気を失うようなパーソナリティをもっているのかもしれない。だとするならば、主人公の和夫くんがしょぼくれているのも納得だ。

そんなところで、このお話は自分なりに理解できたといえるかな。『ダイヤモンドダスト』は、人の死とか何かを永遠に失うときの気分を「寒さ」とか「ダイヤモンドダストのような切ない輝き」でメタフォライズしており、それを受けた自分の姿をメタフォライズしているのが和夫くんの煤けた姿だ。うん、自分では決して実感できないものを想像力で理解できると達成感がある。

文章は綺麗ですごく読みやすかった。


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ルーシイ・モンゴメリ『赤毛のアン』



タイトルは知ってるんだけれど、読んだことはねーっていう本、いっぱいあるよな。『赤毛のアン』もそのひとつ。サマリと感想を書く。



カナダはプリンスエドワード島。マシュウとマリラのクスバート老兄妹は、人手のために孤児院から男の子を養子にもらうことにした。トシのせいか農作業がツラくなってきたからだ。しかし送り込まれてきたのは赤毛の女の子、アンだった。なんか手違いがあったみたいだ。とっとと送り返そうという話も出たがいい子っぽいし可哀想だから結局は引き取ることにする。まあ男の子はバイトを雇えばいいでしょ!
マシュウは寡黙な男だが実際はじめっからアンのことが気に入っており、何があっても彼女の天真爛漫さと想像力を愛した。だが叱るということをまったくしないので、そこはマリラがフォロー。いやまあ性格的に、手放しでホメたりするのが苦手なのだが。アンはなかなかホメっぱなしということをさせてくれない子であった。生粋のトラブルメーカーなのである。想像力が豊かで行動的な奴なんてそんなもんだ。悪口を言ってきた奴には容赦なくキレて石版でぶん殴ったり、茶会で間違って酒を出したり、遊びの最中に屋根から落ちたり。トラブルを起こすたびにマリラは「そろそろやらかす頃だと思ったよ」とため息をつく。だけど近所のリンド夫人が言うように「かあっとのぼせてもすぐにさめる癇癪持ちにはずるいのやうそつきがいない」ものだ。アンはどんなトラブルも持ち前の正直さと想像力で乗り切った。学校でも人気者。成績優秀な男の子に張り合って勉強もめっちゃしたから、クイーン学院にも主席入学してのける。そして何より、自分を引き取り、影に日向に支えてくれたクスバート老兄妹を愛し、その恩に報いるためいつも頑張っていたのだ。マリラも口では厳しいことばっかり言うが、実際アンを心底愛し、こんなに一人の人間を愛することは罪にならないだろうか、と神に問うほどだった。
アンはクイーン学院でとびきり優秀な成績を納め、奨学金をとって進学する権利を得た。が、近頃調子を崩している養父母のことが気がかりだった。そんな矢先、マシュウが心臓発作で亡くなってしまう。アンは進学をやめて地元の学校で教鞭をとることに決めた。そして自分が何よりも好きなこの家でマリラと一緒に暮らしていくのだ。



何この子育て物語。めちゃめちゃ単純にいい話だった。アンがクイーン学院の下宿にいってしまうのを悲しみつつもそれを表に出せないマリラが描写されるとこなんか、あやうくうるっとくるところだったぜ。印象的なくだりを以下に。

ツンデレのマリラおばさん
  • ツンデレなんて俗っぽいワードを使うのが申し訳ないくらいの正道で徹底したツンデレ。それは深い愛と優しい厳しさに満ちた完璧な母親の姿だった。マジでぐっときた。俺は早いうちから親元を離れているからこの程度で済んだが、いまだ親と暮らしている人が読んだらついついカーネーションでも贈りたくなっちまうんじゃないだろうか。
オチ担当のマリラおばさん
  • アンが地下室にひっくり返したロウソクの皿を翌日マリラが発見したり、マシュウおじさんが人生きっての大作戦を試みているパラグラフの「一方そのころ」でマリラがいつも通り家の換気をしていたり、つねに実際的で現実的なマリラおばさんが、文章上のオチ担当になっているのがたまらない。こういう、文章構成ツッコミも存在するんだなあと感心させられちまった。
俺には絶対発想も書くこともできない一節
  • 「なんてまあ、アン、あんたは大きくなったんだろう!」とマリラがアンの成長に驚くシーン。小さかったころと同じくかわいいことは変わらないが、マリラは何かを失った気がして妙に悲しくなり、冬の夕闇の仲にたったひとり座って泣き出してしまう。
  • なんとも言い難い。痛ましいのとも、感動とも違う、うるっとくる気持ちがする。親心か。俺には逆立ちしても書けない。

かあっとのぼせても、すぐさめるかんしゃくもちには、ずるいのや、うそつきがいない
  • サマリにも書いたが、アンを象徴する一節。こういう自分にも通じる文章にはついつい反応しちまう。俺はアンとはまったく違うが、まっすぐなところはひけを取らないぜ。そう、俺たちはずるくもなければうそもない。
子供の自分がされて嬉しかったことを、いつか子供にしてやることを誓うアン
  • 俺も同じことを誓ったので共感。子供には、ついつい偉ぶった教訓を垂れてしまうものだ。でも本当に小さな俺が望んでいたのは、同じ目線で正々堂々と話をしてくれる大人だ。それを忘れないようにしたい。

270ページはコメディ
  • ちょっと全体的に面白すぎて書けない。
基本的にアヴォンリーの連中は毒舌キャラで面白い
  • アン「分別があるってたいしたことにはちがいないけど、あたしはそうなりたいとは思わないわ。リンドの小母さんは、あたしがそんなに分別がつく心配はないって言いなさるけど」
    • 分別がつく心配はないは笑う。

とうとう地の文までコメディに参加してくる
  • 「何かわくわくすることがひらめいたら、すぐそれを出さなきゃいけないわ。ちょっと待って考え直したりしたら、すっかりだめになってしまうわ。小母さんもそんな感じがしたことないの?」いや、リンド夫人にはなかった。
    • いや地の文お前が答えるのかよw
自重しない地の文
  • 「自分のことばかり考えすぎず、どうすれば奥さんがいちばんよろこびなさるかということを考えるんです。」マリラは生まれてはじめてりっぱな、奥行きのある注意を吐いた。
    • 地の文自重しろw

多いわ! マリラの魅力と、アンのコメディ体質に引っ張られる楽しい読書だった。


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仁木英之『まほろばの王たち』



まほろばってタイトルと緑色の表紙に惹かれて読んだ。まほろばってのは俺がガキのころ取り組んでいたプロジェクトの名前なのだよ。サマリと感想を書く。



時は大化の改新。場所は朝廷。蘇我氏に滅ぼされた物部氏の生き残り、広足(ひろたり)ちゃんは料理が上手な女の子。料理が上手っていうけど、それがまた神懸った上手さなんだ。その料理の腕に目をつけた美しい験者、賀茂役小角(おづぬ)さんは彼女を弟子にとる。広足ちゃんとしては、師匠はめっちゃカッコイイ術師だし、山での神様たちに囲まれての生活は長閑で充実だし、とっても満足だ。
が、世間はというと中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼし、各地に大道を敷き、野も山も統一しちまおうと動いており大わらわだ。山の民はそんなこと勝手に推し進められてはたまったもんじゃねーから、山と朝廷の確執は深まるばかり。そんな中、里には人食い鬼が出て、山には神喰いなるバケモンが出やがる。互いに「山の差し金だ!」「朝廷の差し金だ!」と一触即発の雰囲気になってしまう。
そこで立ち上がるは我らが小角師匠である。手始めに神喰いを待ち伏せて正体の見当をつけ、鬼の住処に入って人食い鬼の事情を調べ上げた。事の次第がわかったので朝廷へ行ってみると、賀茂の族長である大蔵さんが中大兄皇子をだまくらかして山と山の民に関する全権を頂戴しようとしているところだった。そう、この大蔵こそは鬼をだまくらかして人を食わせ、神を食って山と里の関係を悪化させ、ドサクサに紛れて力と権力を得ようとしていたクソ野郎なのである。小角師匠は神たちと共に大蔵を取り囲んで撃退した。
だけどぶっちゃけ全てが大蔵さんのせいってわけでもないだろう。そもそも山を手中に収めようなんて中大兄皇子と中臣鎌足が言い出したからこんなことになってるのだ。小角師匠はここぞとばかりに「今後山に手を出さないように」と申し出るが、皇子は「天の下にあるものはすべて国の一部だ」と話をきかねー。平行線のまま事件はとりあえず終結を迎えたとさ。



気に入ったくだりを以下に。

広足ちゃんのお料理シーンが好き。
  • 星灯りを頼りに石を打ち、持ってきた木屑を使って火を起こす。呪を唱えつつ水を清めて米を炊き、そこに鹿と山鳥の干し肉を入れ、最後に葱を刻んで彩りを添えた。
  • 「さて、作るか!」蕨、葛、いたどり、鱈などは一口大に切って醤で和えたものに山椒の葉をあしらう。大鍋に菜種油を満たし、大きな竈にかける。米と麦を石臼でひいたものを様々な形に整えていく。純白の生地が熱い油の中で心地よい音を立てる。
広足に呪禁を教えてくれない小角師匠。
  • 「人にはその身にあった働き場所というのがある。お前の作る食事は素晴らしいものだし、それは私の術になんら劣らない」。
  • 「一つ何かを為すことができれば、全てはその応用でしかないんだよ」。
    • 同感だ。何かひとつに絶対の自信がある奴はどこでも堂々としてるものだ。逆に、どんな分野でも負けず嫌いだなんて奴は、どんな分野でも自信がないってことになるんじゃねーかな? だけどさ、呪禁くらい教えてやれよ! 「一つ何かを為すことができれば」の理論はむしろ、「何か一つをやりきれる奴は何でもきっちりやれる」ってことだと俺は思うんだが。
小角師匠の山好きをばっさり言い換える広足ちゃん。
  • 「山を走り、岩に座り、古き者たちと心を交わすことが喜びだった。だから私は山を敬し、そこで時を過ごすことに決めた。」「俗世がおいやだったんですね。」「平たく言うとそういうことなんだろうな」。
ベジタリアンの小角師匠。
  • 「食えば調子が悪くなるとわかっているものを、何も好んで食うことはない」。
中大兄皇子の資質と、それを評価する中臣鎌足。
  • 「多くの死を見なければならない。敗れし者の死には向き合っていかねばならぬ」。立派だ。天皇たる者に必要な仁慈を生まれながらにして持っている。
    • 中臣鎌足が中大兄皇子の右腕にして一番のファン、っていうのがよかったよな。
結末について。
  • 小角と中大兄皇子の思想戦はドローに終わるかたちだったけど、それを大海人皇子がうまくまとめてくれたな。終始「なんじゃこの小僧は」と思わせてくれる大海人だったけど、最終的に「山も里も見た統治者」という立ち位置に収まるための存在だったんだね。

ストーリーとかキャラに思い入れはまったくできなかったが、文章がやさしくてとても読みやすかった。理解に躓くところが全然なかったね。村上春樹とは違ったやさしさ。まるっこい感じ。村上春樹の清潔な読みやすさとは違う。俺もこういう、文章における自身の色みたいなもんが欲しいところだぜ。


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マリー・セクストン『ロング・ゲイン』



親愛なるルームメイトが貸してくれた。サマリと感想を書く。



コーダ町に住んで兄夫婦とともに小さな店を切り盛りするジャレド・トーマス。ある日コーダ町にタフガイのマット・リチャーズが越してきた。彼はジャレドのタイプど真ん中で、ジャレドはすっかりまいってしまうんだけれど、やんぬるかなマットはストレートだった。ジャレドはその恋をしまい込むことにする。が、しかし良いのか悪いのか、ふたりはめちゃめちゃ気が合うのだった。応援チームは違うけれど同じフットボールファンで馬が合うし、マウンテンバイクで山を一緒にライドすればもう最高。ジャレドのほうはゲイだってことで周囲から孤立してたし、マットは親の指図に逆らって進路を決めたことで家族とも疎遠だし孤立しがちな性格だった。それがお互いソウルメイトに出会っちまったものだからもういっつも一緒に遊んでいた。
ふたりの友情は確かなものだったが、生活に問題がないわけではなかった。ジャレドは家庭教師の腕をかわれて学校からスカウトされるが、心無い人々からゲイであることをあげつらわれるのを恐れて小さな自分の店に閉じこもっていた。マットはジャレドとつるんでいることでホモ疑惑を立てられ、微妙な立場におかれていた。孤独が募る中、マットはジャレドに惹かれていることに気づき、唯一の親友たちは恋人どうしになった。
ある問題が持ち上がった。マットがやたらとジャレドを職場の連中に会わせようとしたり、学校からのスカウトを受けるよう強要してくるようになったのだ。ジャレドは断固拒否の姿勢だ。差別を受けてきたし、もうそんなことは御免だからだ。だがマットは「これからずっと一緒にいるのなら、お前を愛していることを恥じ隠しながら生きるのはまっぴらだ」と説き伏せる。ジャレドは外の世界に立ち向かう意思を固める。
そもそもジャレドは一般的にイメージされるなよなよしたゲイではない。マウンテンバイクに乗らせれば一級の腕前と体力があるし、犯罪者を前に大事な人達をかばうような勇気もある。そういうところが知れ渡ると、あっさりと彼は受け入れられた。マットのどや顔がちょっと気に障るが、ジャレドも彼が正しかったことを納得せざるをえないのだった。



てわけで今回はボーイズラブのお話だった。ボーイズラブの漫画もいくつか読んだことがあるけれど、ハッピーエンド系のボーイズラブは結構好みだ。なんだろうな、俺が男性同士のセックスに興味がないから、いちゃらぶからセックスを濾し取って残った愛情だけが顕著に感じられてジーンとするのかもしらん。ほら女の子のセックスが出て来る話だと、話を頭や心で感じると同時に、ちと表現がアレだけれど下半身でも感じ取っちゃうじゃん。それがないのが気持ちいいのかな。
しかしジャレドはすげえ感じのいい男だったぜ。人当たりが抜群にグッド。自身のゲイをネタにして冗談言ってるときの輝きが半端じゃない。「きみのバチェラパーティを企画してあげるよ。ただしストリッパーは僕の趣味で選ばせてもらうけどね」。山歩きやマウンテンバイクのライドが大好きなのも好感度高いよな。
  • 走り出してしまえば、いやな気分も吹き飛んでいく。だって周りは、僕の愛するものばかりだ……山があって、自転車があって、挑戦すべきトレイルが目の前にある。
『弱虫ペダル』にはまって俺にロードバイクを買わせた親愛なるルームメイトが、いつマウンテンバイクのカタログを持ってくるか戦々恐々だ。ただしジャレドくん、地の文で盛りすぎ!



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Paul Graham『ハッカーと画家』



知り合いが貸してくれた。エッセイだから、サマリというより、楽しめたくだりを個別に書き下す感じでまとめる。



ハッカーは科学者ではなくもの創り。
  • ハッカーとは、優れたプログラマたちが優れたプログラマたちのことを指していう呼び名だ。
  • ハッカーにとってコンピュータは単なる表現の媒体に過ぎない。画家にとって絵の具がそうであるように。
  • 多くの分野ではプロトタイプは本番とは違う材料で作られた。彫像は蝋でモデリングされたあとブロンズに鋳造されたし、石造りの建物はまず木で模型が作られた。油絵が流行したのは、プロトタイプをそのまま完成品にしていけるからだった。ソフトウェアも油絵と同じ。
  • 優れたハッカーは共通して好奇心が強い。好奇心とは、覗いてはいけないと書いてあるドアを覗くことだ。
  • 覗いてはいけないと書いてあるドアとは何か? 世間一般で口にしてはいけないとされていることだ。
  • タブーは時代によって変わるものだから絶対的なものではない。ものごとが意味不明な根拠で禁じられているということはよくある。非難の根拠がレッテルであるときその可能性は高まる。
  • 口にできないことを問い続けることで明晰な思考が生まれる。当然とみなされていることを疑う能力は科学でも大きな利点である。
  • ハッカーたちは基本的に非服従である。なぜなら、権威が幅を利かせる社会は悪いアイデアが勝つ世界につながるからだ。やりたいことが自由にできない社会では、最も効率の良い解ではなく影響力のある人々に支持される解が勝ってしまう。
  • 普通のプログラマは生活のためにコードを書く。素晴らしいハッカーにとってコード書きは楽しみのためにするものである。
  • 素晴らしいハッカーに共通することのひとつは、彼らが自分から望まないことをやらせるのは極めて難しいということだ。

富とお金は違う。本当に欲しいのは富である。
  • 富とお金は違う。お金は作り出せないが富は創り出せる。壊れた車を修理したら、富が創り出されたことになる。
  • もの創りの職人は富が創り出せることに気づきやすい。そして現代の職人がプログラマである。
  • 格差は悪いことではない。格差は富を作り出す人々が富の対価を得ている証だからだ。
  • ジャンボジェットのパイロットは荷物預かり窓口スタッフの40倍の収入を得ているかもしれないが、パイロットが領主で他のスタッフを奴隷にしているわけじゃない。単にパイロットの技能のほうがずっと価値があるだけだ。
  • ある人に他の人の2倍の才能があり、10倍の収入を得ていることを不公平と言う人がいる。だがそうではない。たかだか2倍の技能であっても、それが一人の人間の中に凝縮されているということに大きな意味がある。
  • 確かに技術収入の格差は広がっているかもしれないが、他の多くの格差は縮まっている。我々が避けたいのは絶対的な貧困であり、相対的な貧困ではない。

よいデザインは「人それぞれ」ではない。
  • センスは個人の好みだ、ってのは論争を避けるにはいいが真実ではない。
  • よいデザインには原則がある。たとえば単純であること。単純さを強制されれば、デザイナは本物の問題と向き合わなきゃならない。
  • プログラミング言語に優劣はないというのは真実ではない。プログラミング言語はどれもが、機械語から最もパワフルな言語までの抽象的なスペクトルのどこかに位置する。
  • どの言語に属していても、下の言語の劣悪さは理解できるが上位の言語の性能は理解できない。
  • プログラミング言語で最もパワフルなのはLispである。各言語は進化を重ねているが、だんだんとLispに近づいてきているだけだ。
  • 保守的な人々が礼賛し広くマーケティングされているアイデアは、その業界でのベストプラクティスと呼ばれる。しかし技術の世界で広くマーケティングされているアイデアを採用すれば、単にあなたを平凡するだけだ。

ハッカーを育てる方法は?
  • ハッカーはより「政治的に正しく」ない。プログラムというのは極めて複雑なもので、しかも流動的なものだ。そんな状況では前提を常に疑う習慣が役に立つ。
  • そんな資質を育てることができるかどうかは分からない。しかし少なくともそれを抑えつけないことはできるだろう。



楽しめたよ。この本から感じた印象が以下だ。
1. 自分を優秀だと思っている。
2. 自信があるから、ものごとを明確にすることを恐れない。
3. そういうマイノリティな生き方に親しんでいるから、似た生き方をしてきた人々に同調と仲間意識をもつ。
つまり俺ですね。全体的にこの本は、どんだけ自分が正当か理論立って説明したものだ。通読にあたりずっと気分良くいれたのは、全編に渡ってホメられているように感じたからだ。これは以前『マズローの心理学』読書で感じたものと同じだ。俺が思うに人ってのは、一度は自分ですでに考えたことがあること以外を理解することはできない。本を読んだ初めての理論をその場で理解できたとしたら、それは一度自分の頭で考え直して理解しているんだ。この本にあることのほとんどは俺が慣れ親しんだ世界観に存在する思想だったから、よく理解できて気楽な読書だった。さらに俺は最近プログラムをかじっているからそういう分野の記述もそこそこ理解できた。いやあ楽しめたぜ。
だけど、書いてあることがだいたい俺の頭にあることだったとはいっても、同じような文章が書けるかと言われれば否っぽい。すごく文章がうまいと感じた。たくさん出てくる例え話も理解しやすかったし、さすが業界でたくさん経験されてるだけあって説得力ある具体的な記述にあふれていた。


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G・ガルシア=マルケス『百年の孤独』



いやいやいや、確かに前回俺は「次は読みづらいのを選ぼう」って言ったぜ。でもこんなに苦労する一冊だとは予期していなかったよ。三週間かかった。俺は一週間に一冊くらいのペースを望んでいるんだよ! そんなわけで今回の一冊は、百年にわたるブエンディア一族の歴史をひたすら辿っていくというお話だった。サマリと感想を書く。



あるところにホセ・アルカディオ・ブエンディアくんとウルスラ・イグアランちゃんがいた。ふたりはスゲー仲良しで結婚したんだけど、実はいとこ同士である。親類同士で子供をつくると豚の尻尾のある奇形児ができると脅され続けたウルスラはずっと子供づくりに否定的であった。が、ある日そのことを知人にからかわれたホセ・アルカディオ・ブエンディアはキレて知人をぶっ殺し、その勢いで子供をつくる。それはいいんだけど知人の亡霊がずーっと出続けるのに参ったふたりは故郷を出て新しい村を作ることにする。
そうしてできた村がマコンドだ。ホセ・アルカディオ・ブエンディアは精力的で公平な指導者なのでマコンドはいい感じの村になったが、ある時ジプシーのメルキアデスが来村し、錬金術を伝来させる。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはそれにハマっちまって、すっかり手に負えない変人になっちまったので、木に縄で繋がれてしまう。ただメルキアデスはいい人なんだぜ。ブエンディア第一世代はこんな感じ。

第二世代は上のふたりの子どもたちである三人兄弟、妹の、ホセ・アルカディオアウレリャノアマランタだ。長男のホセ・アルカディオはわがままだけど筋骨たくましい男の中の男で、遠くからやってきた母ウルスラのまたいとこレベーカと略奪愛の上結婚する。男らしィ! 次男のアウレリャノは月経も来てない美少女レメディオス・モスコテと結婚した紳士の中の紳士。が、そんな一発ネタでは終わらない男で、生まれつき予知能力があり、大人になったころには大佐になって戦争でご活躍する。長女のアマランタは恐るべき恨みの女で、上述のレベーカとの恋の戦いに破れレベーカを恨み続ける。恨みまくった挙句、まったく関係ない兄貴の嫁レメディオスちゃんが自家中毒で死んだものだから罪悪感にさいなまれちゃう。そんな、まあ悪い子ではないよねって感じの妹キャラだ。ちなみにお兄ちゃんふたりは、それぞれ嫁さんがいるくせに、まったく関係ない占い師ピラル・テルネラさんと子供を作り、その子らが第三世代となる。ちょっと混乱するからそういうことはやめてくれませんかね。

第三世代は三人兄弟妹の長男ホセ・アルカディオの息子アルカディオと次男アウレリャノの息子アウレリャノ・ホセの時代だ。眠たいときにつけたフォルダ名みたいにややこしいネーミングだが、この世代を乗り越えれば割りとわかりやすいので安心してほしい。アルカディオは上述のアウレリャノ大佐にマコンドを任せられるが、ダメなタイプの支配者になっちゃって好き放題する。彼の三人の子供が第四世代となる。嫁さんは母ピラルさんの紹介(意味深)で会ったサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダさん。後者アウレリャノ・ホセについては正直印象が薄い。子供もおらずこの先出てこないので省略しちゃおう!

前述の通りアルカディオとサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダの子どもたちが第四世代。結構ハジけた連中だ。双子のホセ・アルカディオ・セグンドアウレリャノ・セグンド。ホセ・アルカディオ・セグンドのほうはあんましパッとしない奴で、一大事業を試みるものの尻すぼみな結果に終わったりしちゃう。アウレリャノ・セグンドのほうは中々モッてる男で、空前の好景気に後押しされる形でめちゃめちゃ儲けて、女王になるべく育てられたフェルナンダ・デル=カルピオと結婚する。そしてヤバ中のヤバ、長女レメディオス。小町娘の異名をもつこいつは化物レベルの美貌をもった美少女だが、芯からの天真爛漫で、世俗にも男にも興味がなく、いつも屋敷を裸で駆け回っている。男たちはみんなこいつに求婚してはフラれるが、それだけでは済まずみんな謎の死を遂げる。果てには光に包まれて空へと姿を消す謎っぷり。何なんだこいつは。このハジけっぷりにも負けず、上述のフェルナンダさんは屋敷に常識を保ち、子をもうける。屋敷の変人たちはフェルナンダさんを割りと厭うているけれど、この子いなかったら一族終わってるから。

第五世代は上述どおりアウレリャノ・セグンドとフェルナンダの子供たち。ホセ・アルカディオレナータ・レメディオスアマランタ・ウルスラの三人だ。この連中は全世代のイカれ具合を返上するが如くのまともっぷり。長男ホセ・アルカディオは神学校へ行き、長女レナータ・レメディオスは楽器の学校へ行く。末っ子アマランタ・ウルスラは外国からきちんとした旦那を連れてくる。が、やがて帰宅した長男は殺される。次女は友達もめっちゃいる明るい子で、いい男と恋に落ちるが、彼の不幸と同時に唖になって一生喋らなくなってしまう。ただこの二人は子供は作れていて、その子が次の世代となる。末っ子はせっかく連れてきた旦那をほっぽって屋敷の仕事ばかりに熱中し、旦那は国へ帰ってしまう。

上述の子、アウレリャノ・バビロニアが唯一の第六世代である。彼は同じく上述のアマランタ・ウルスラが大好きになっちゃう。彼女のほうも旦那から気持ちが離れつつあるから、お互い好き好き大好きになって寝まくる。やがてアマランタ・ウルスラは妊娠して、豚の尻尾のある子アウレリャノが生まれる。出産と同時にアマランタ・ウルスラは出血で死亡する。赤ん坊のアウレリャノも死んでしまい、蟻に食われることとなる。そのときアウレリャノ・バビロニアはジプシーのメルキアデスが百年前に残した羊皮紙を読む。そこには「この一族の最初のものは樹につながれ、最後のものは蟻のむさぼるところとなる」と書かれていた。アウレリャノ・バビロニアはその羊皮紙が一族のすべてを予言したものだと気づく。そこにはマコンドが暴風によって滅びることが記されており、今がまさにそのときであった。



ビックリするくらい体力を消費する読書だった。
  • 主人公がいない話なので、読者としての視点をどこにおけばいいかわからなかった。ミステリーだったら犯人とトリックの判明、愛憎物語だったら人間関係の決着、といったような「何がどうなったら解決か」という俺が本を読むときの基本的な姿勢が通じなくて疲れた。
  • 似たような名前の主人公が続々登場する上に、描写の時系列がたびたび前後する。ホントどうなってんだこのネーミングセンスは?

とはいえ俺はこういう、現実的世界に不思議成分が小さじ一杯はいったような世界観は割りと好みで、読後感は悪くなかった。ボリス・ヴィアン『日々の泡』もそういうタイプだったな。あれは楽しめた。それに、一人の登場人物に固執せず一族の栄枯盛衰をひたすら記録しました、みたいな作りも面白い。神話とか、叙事詩って感じの雰囲気でよかったよ。読むのはクソくたびれたけどさ。いや本当の話。

ほんで作者はこの作品を通して何が言いたいのってところだけど…、ダメだ何にも浮かばねえ。思いつくとすれば、作者のもつ雑多な思想を各所に散りばめて、自己の思想体系をブエンディア家という枠組みの中で表現するのが目的か? わからん。


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